ペットロス?2005-09-28

そんなんじゃない。
魂の奥底で震えているのは確かだけれど。

今日、獣医から状況説明が届いていた。
落胆の激しい僕が、すぐにうるうるするもんだから
『ごお』が逝ってしまった日の様子を誰にも話せなかったのだ、
また、落胆ぶりに遠慮して、誰も聞けなかったというのだ。
『ごお」を愛した母も、なぜなのかを知りたくて獣医に問うたのだという。
忙しかったろうに僕に説明した内容を丁寧に書いて送ってくれた。
そこには
『ごお』ほど、のびのびとおおらかに育った子を見たことがありません
……犬はこういう風に飼うものだと教えられていたように思います。
などと書かれていた。
その手紙を見て、僕は少し救われた気がしている。
お世辞やなぐさめもあるのかもしれないが、
獣医の目にも僕と『ごお』との関係は信頼しあっていると映っていたらしい。

こんなにもあっけない結果に終わったのは
『ごお』が22日の未明に嘔吐するまで、
旺盛な食欲、僕と一緒の散歩では走りすらする状況が
小さな兆候があったはずなのに、見えなくさせていたことに尽きる。
見ないように、気づかないようにしていたのかもしれない。
目に見える形での異常に気づいたときには
既に急性膵炎になっていたものと思われる。
だが、獣医に連れて行くときにも、しっかりとした足取りだったので
異物を食べたために起きている体調不良に違いないと予断を持ち
事の重大さを見誤り、過小に評価してしまい、
できれば開腹を避けたいと獣医に言ってしまった。
これらの点こそが悔やみを感じる原因なのだ。

夕方に獣医から届いた連絡に手術してくれと伝えたとき
猛烈な自己嫌悪すら感じたことも事実だ。
その自己嫌悪が『生きて返してや』との言葉となって口から出た。

手術が終わり安定しているとの連絡を受けたときには
ほっとしたのだ。
この時点では生還を信じていたので
見舞いに行くと帰って興奮させ危険と判断し
退院まで、見舞いに行かないと決めたことが
次の後悔になっている。
生命に危険があると予想していたなら、
何をおいても見舞いに行くべきだった。
励ましの言葉をいっぱいかけるべきだった。

検査と手術にあたって声をかけ励ませなかったこと、
臨終に立ち会えなかったこと、自宅で僕の傍らで送ってあげられなかったこと
これらも悔いとなっています。
しかし、僕は僕にできるせいいっぱいをしていたのだと
この何日間か、この日記に寄せてくださったみんなの言葉
『ごお』を知る人たちから聞く、悔やみと励まし言葉で信じることができました。
僕にとって、大きな救済となっています。

『ごお』ほど全力で信頼してくれた犬はいません。
僕が『ごお』の信頼に応えられたかどうかは、
本当に再び会える場所があるなら、
『ごお』の口から聞きたいと思います。

25日に『ごお』とよく行った二上山に『そらん』と行ってきました。
道端に咲いているコスモスを少し「ごお」のために摘んで帰りました。
次の日曜日には1歳まで暮らした前の家の周りを訪れようと思います。

コメント

_ ちゃき ― 2005-09-29 03:19

うん、うん・・・。
うまく言葉では言い表す事はできないけど、くまちゃんのごお君を愛していた気持ち、良くなって帰って来ると信じていた気持ち、二つの後悔、理解できるよ。

でも、くまちゃんはごお君の事を考えて、二つの後悔になってしまった事を選択したんだよね。
きっと、それは、ごお君も分かってくれていると思う。
それくらいごお君とくまちゃんは信頼関係が成り立っていたと思うから。
くまちゃんの考えはごお君の考えでもあったと思うよ。
最初の時点で開腹をしなかったのも、老犬というごお君の身体の負担を考えての事でしょ?
それを理解できたし、その時は今すぐに切らなくても良い状態だったから、先生もその意見に同意し、切らない方法で検査を進めていったんだと思うよ。

最後に立ち会えなかったのも、結果はそうであっても、くまちゃんがごお君の事を考えて会いに行かずに(下手に会いに行くより、今は我慢した方がごお君の回復が早いと思ったんだよね?)たまたま結果がそうだっただけだから、間違っていなかったと、私は思っているよ。

最後に立ち会えなかったとしても、ごお君とくまちゃんには、それまでの二人で歩んできた人生&犬生がある!
それがあるからごお君は幸せに旅立てたと信じているよ。

そして、ごお君とくまちゃんは、素晴らしいパートナーだったと思うよ。
獣医さんも言っていたように、ごお君のようにノビノビとワンコらしく生きた子と、そういう風に育ててあげたくまちゃんは、私から見てもステキな関係だったよ。
時には、羨ましくもあった。

これからずっと先、くまちゃんがごお君に会えるようになる時には、きっとごお君「虹の橋」でくまちゃんに素敵な言葉をかけてくれると思います。

これからごお君との思い出の場所をあちこち回るんだね~。
きっとごお君、くまちゃんの側で一緒に思い出巡りを楽しんでいると思うよ!
いつもの場所でね!

_ くまねこ@喪中は初七日まで! ― 2005-09-29 23:47

ちゃきの言うとおりだよ。

この日記は、そうしたことを理解していながらも、
ともすれば、「ああしたらよかった。」『こうしたらよかった』という思いが残ることを、自分で確認する過程なのです。
たぶん、自分が大切にしていた者を亡くすとき、
ほとんどの人に訪れる感情を記したということなのだと思っています。
それを周りにいた人たちが和らげてくれるという事を記録しておきたかったのだ。
もし僕が『ごお』を喪ったことを悔やみ、
誰にも苦しさを吐き出さなかったとしたら
おそらく自己を責め、悪い循環に陥ったろうなと思います。
もし胸の裡をさらけ出したときに
『たかが犬の死で、なに言うとん』などといわれることがあったら
再起不能に近い精神状態になったろうなと思います。

僕には、ちゃきほかの『ごお』を知る人たちの言葉があったから、悪循環に陥ることは避けられた。
自分自身でも保険(多頭飼い)をかけていたことで、
死を悼んでいるだけとならないように手配していた 
必然的に(そらんの)面倒を見なければならないというのは、
哀しんでるだけでは居られない状況でもあるのです。

人の死でも、苦しむ人に追い討ちをかけるような言葉を浴びせる人が、少なからず存在します。
お願いです。たかが犬の死といわないで
悲しみに沈む人に無神経な言葉をかけないで。

いい理解者が居ることは救いです。
犬が好きな犬友達の存在は大きいです。

僕はネットでも実生活でも人に恵まれた。
『ごお』のことを僕が語るまで、

_ ぱんだんて ― 2005-09-30 00:26

どんなに考えて選択をしても、人間はやっぱり後悔してしまう。
あの時、ちがう方に行っていたら…

選んだ道がベストだったかどうかは自分で決めること。
言い訳のようにも聞こえるけど、わたしはそうやって乗り越えたの。
どんなに慰めや励ましの言葉をかけてもらっても、結局は自分の中で消化して納得しないと心のもやもやは取れなかった。

くまちゃんがごおくんの思い出をゆっくりゆっくり語ってくれるのを、ほんわかした気持ちで読んでいます。

_ くまねこ@犬の大将修行中 ― 2005-10-01 21:41

ぱんちゃん。そのとおりだよね。
自分で消化して納得することが大切だと思う。

誰かに慰めの言葉を聞かされても、
それが的外れだと、こころが疲労してしまう。

ひとりよがりな日記かもしれないけれど
書くことで思い出すこともたくさんある。
行ったり来たりを繰り返しながら
すべてを平然と受け入れられるときが来る。
そう思うことにしています。

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