空中軍艦大和19442010-08-04

 桂令夫   イカロス出版   952円(税別)

 架空戦記というジャンルでは,往々にしてご都合主義の権化というべきものが登場してくる。史実ではミッドウェイ以降、連合艦隊は何度も乾坤一擲といえる図上プランを立案し実行するが、ほとんどの作戦において、戦力拮抗の時期でさえ、技術力の差と戦闘員への考え方の違いから人的消耗も進んだこともあり、満足な戦果が挙げられなくなる。生産力には雲泥の差もあり、ジリ貧となり瓦解していく。

空母を囮に使う作戦など、知略との評価があるけれど、でたらめな作戦だとぼくは思う。艦隊決戦を挑むなら挑むで、最強戦艦と豪語していた大和と武蔵を、空母が健在な間に集中運用していればよかったものを、作戦に参加させるようになったのは、主力空母が壊滅した後だというのだから、宝の持ち腐れとしか思えない。

指物連合艦隊の誇る戦艦群も制空権を失っていては米航空機により次々と沈められ、挙句、ほぼ大和単艦で沖縄特攻なんていう実現性の低い作戦に赴くこととなり、戦果を挙げることもなく、最強戦艦は海のそこに、数多の戦闘員と伴に沈められてしまう。なにが海軍は開明だっただ。今の視点に立てば寒いものがある。

 勇壮だが運を天に任せた作戦立案の下で、優秀な指揮官や熟練要員を失っていては、例えミッドウェイの敗戦がなくたって、やはり負けてしまうしかなかったのかと思う。

潔さや死を怖れないことが、日本人の美意識の中にあるのだと格好を付けて言いつくろうのはたやすいが、国の指導者までもが、そういう美意識で作戦立案をしていたのかと考えると、下々のものはやるせないものがあったのではないだろうか。

葉隠に言う、武士道とは死ぬことと見つけたり、では戦争は勝てないだろう。山口多聞にしても小沢治三郎にしても、名将との評価が良くなされているが、潔さという点で、日本人らしすぎたのだろう。まだしも鹿之助や三成のような考え方のほうがよかったと思う。今があるから、死者を鞭打つことのない国民性で、名将としてしたわれることになっているのだろう。

大和という世界最大戦艦は、日本人にとっては誇りだったのだろう。46センチ主砲が、敵艦を叩く、そういう架空戦記は、それこそ山のように書かれている。松本零司の『宇宙船間ヤマト』だって、発想の根には、最大戦艦への憧憬があったんではないだろうか。とにかく活躍する大和を描きたい。大和を描くとき、誰しもが熱をこめる。それほどの題材であるのだ。

しかし、この作品での大和はいただけない。アオシマと名乗るマッド・サイエンスとを登場させ技術を登場させる。反重力と思しきアオシマ機関、浮力を与え、最大船速は35ノットに向上させる。さらに、飛ぶこともできる。電探も電脳搭載の自動射撃装置つき。ほとんど無敵にしてしまった。アオシマ機関のおかげで、ほぼ沈まない戦艦という設定になっているのだ。昭和19年以降にアオシマの諸装備を搭載して参戦し、ほとんど単艦で、米海軍を翻弄してしまう。

贔屓の引き倒しに終始するこの作品に脱力感がいっぱいである。