ぼぎわんが、来る2018-12-03

澤村伊智  角川文庫  680円

映画が間もなく公開されるということで、
何処の本屋でも平積みされている。
で、読んでみた。

単行本は2015年出版で、日本ホラー小説大賞「大賞」受賞桜だそうだ。
同賞は大賞が出されない年度があるから、
大賞受賞作というのは本当に名作ばかりの印象がある
だからかなり期待していた。

「夜市」並みを期待したが、期待倒れとの印象を残した。
面白いし、怖さもたっぷり。充分読ませる。
だけど過去の作品のよいところを継ぎ足したように思えてしまう。
新しさは感じない。ホラーに新しさを求めるのは間違っているのかもしれない。
だけれど≪大賞≫ゆえの期待を満たしてはくれなかった。
女性の怨念と、貧しさが生んだ間引きや姥捨ての陰惨さという伝統的世界に、
モダンホラーのエッセンスを無理に入れ込んだものとなっている気がする。

どこかひっかかりを感じてしまうのだ。

語り手視点の主観がもたらすずれを、最大限利用して読者を迷わせておき、
新しい解釈を展開していくあたり、うまいとは思うが、
個人的に絶賛するほどではないと思った。

繰り返すが、面白いし怖い。
読んで損をしたとも思わない。
エンターテイメントとして優れている。
キャラもたっている。だから続編も出せている。
次作も近いうちに読もうかと思っている。
次作にもこの作品くらいのできなら、傑作と評価するように思うが、
果たして同一のコンビで、同じ手法を使うのは、
今作の緊張感が持続できるのか、疑問に思う。
様式美にしてしまうのもありだけれど、
そういう形態となるなら、その次までは読まないだろうなあ。

あの問題は、あおり運転、ちゃうやろ。2018-12-03

東名高速で起きた強制停止により死亡させた事件。
以後、あおり運転が危ない行為だと世は合唱する。
多くはあおる側の悪質性にのみ注目する。

で、あおり運転批判が起きている。
それ自体に異論があるはずもない。

基本あおり運転はよくないのは承知しているし、
そんな運転をしたいとも思わない。
相手の運転技術と自分の運転技術に対する絶対の信頼がなければ、
自分が怖い思いをするばかりであろう。

だけれどだ。
つい先だっても、追い越し車線を漫然と走り続ける車に出会った。
走行車線は80キロで流れていて、
それよりもやや速いスピードで(メーター読み95キロ)
追い越ししていたのだが、
前方に遅い車がいるのを見た。
走行車線側の車が次々追い越していく。
ややイラッとしたが仕方がないから
アクセルから足を放し、
ブレーキはできれば踏みたくないなと思いながら様子を見た。
どんどん接近してくる。
やむを得ずブレーキを緩く踏み速度を調整した。
車速はメーター読みで75キロまで落ちた。
左側から追い抜いてやろうかと一蹴想ったものの
原則禁止事項だから思い直し前車が進路を譲るのを待った。

そうすると車速をあげだした。
車間を一定に保ちながら(車間60メーターほど)再加速し、追従。
そうするとしばらくしたらまた車速が落ちる。
また走行車線側のクルマより遅くなる。
進路変更してしまおうかと思ったが、
後続を確認したら、走行車線側は車列が完全に途切れている。
今いる走行車線の車が先行車を追い越せば、
さすがに今度は車線を譲るに違いないと思って車間を保ち待つ。
むしろ僕の車の後ろのほうがいらついて車間を詰めてくる。
そして走行車線が開くやウィンカーもほどほどに左から追い抜かれた。
そのあとに続いて僕も進路変更して結局追い越したのだが、
あとからあとからその車がいるから、そこでちょっとした渋滞が起きる。

さてこの僕を含め後続車をして「あおり」とよべるだろうか。
僕自身は、後続車から車間を詰められて、気分は悪いが
あおりだとは思わない。
形の上ではあおられているが
あるいは先行車があおられたと感じたかもしれないが
漫然と走り続ける先行車に大きな問題はないか。
車線意識のなさにあきれる。
そうした知識のなさや状況判断の悪さによる
走行妨害といえないか。

走行車線が開いていれば、基本そこを走る。
追い越し車線で追いつかれたら
できる限り早めに進路を空ける。
追い越しを開始する前に速度差がある車が近づいてきていたら、
その車を先に行かせてから追い越しを開始する。
高速での基本マナーだ。

そもそも追い越し車線を走り続けるのは正しい運転ではない。
追い抜き行為が終了したら、走行車線に戻るのが原則だ。
そうしないから車間が詰まる。
進路を譲ってほしいとパッシングして、
自分の意思を相手に伝えるのは、昔からよくあることだ。

いろんな発言を聞くと、進路を譲らず自分の走りたいように走る、
それをどけと言われた、あおり運転されたとのたまう例も多い。
もちろん速度超過の接近車が全体の状況を見ずに、
ただただ「どけっ」とする場合もある。
車間を15メーター以下にまで詰め、
パッシングや車体を振ったりする威嚇行為されることもある。
それはあおり行為ではある。

が、運転者が互いに知っておくべきルールを知ろうともしないで、
走行車線が空いているにもかかわらずどかずにいたら、
あおりをあおる行為じゃないかと思う。

あの事件があってから
車間を詰める行為があおり運転だと理解し、
後ろから車間を詰めるような運転者が悪いのだとしているようだ。
実は漫然と追い越し車線に居座る行為にも、
あおり運転同様の危険行為であると認識しておく必要はないだろうか。

そうした意味で常識だったはずのものが崩れてきた。
運転者の了解事項を守る方向性の指摘があってしかるべき。

あの事件は、あおり行為という表現は当てはまらない。
専門家でないものから見たら恐喝・通り魔である。
危険運転なんてものではなく、暴力行為でしかない。
多くの人が指摘するあおり行為とは別次元のものだ。
高速道路上で、安全地帯でもない場所に停止させれば、
重大な事故を誘発させる。
普通の頭脳であれば判断できるはずだ。
わかっていてやったのだから放火と同じ程度の悪質さだ。
同じようにあおり行為が危険だと啓もうする意図で
あおり行為を訴える人の言い分を聞き、映像を紹介もする。
その部分だけを見れば悪質すぎる。許されるものではない。

だけれど中には、被害を訴える側に
認識間違いが起きていないかと疑うこともある。

あおりを受けたとする前の時間軸で、
加減速を繰り返していたり、
意思をはっきりさせない車線変更をしたり、
急ブレーキを踏ませるような車線変更を強引にしたり、
人間の悪意を誘発させるような運転をしていないか、
それぞれが見直すことも必要だと思うのだ。

僕に限って言えばそのような運転者によく出会うようになった。
年々その数が増えてきているように感じている。

怖いあおり行為を受けたという、
その裏ではあおり行為を誘発するあおり行為もまたある。
今一度運転するうえでの当たり前が戻らないものかと思う。

昔に比べて高速が走りにくくなっている。
誰しもが状況を見るべきではないのか。

事件の悪質さをクローズアップするだけでなく
高速道路の交通全般のマナーを再確認するときだと思う。