不気味で素朴な囲われた世界 ― 2008-03-04
西尾維新 講談社 850円
西尾維新という作家が評判になっていることは知っていた。
が、評判になっていても触手が動かず、今日まで詠まずに来た。
本屋に行けば、目立つ帯と表紙、
若者ならくすぐられるかも知れないイラストに飾られ、
これ見よがしに存在をアピールしていた。
読むとしてもシリーズものが多いようなので、
シリーズを避けようと考えていたら、見つけたのが表題作だ。
一言で評価すれば、遊びが過ぎる。
タイトル自身が遊びになっているようだ。
これ以前に
「 君と 僕の 壊れた世界」という作品があるのだが、
スペースにブとソとカを入れると、本作品名となる。
だからといって登場人物は共通していない。
例外は最後に登場する黒猫さんだけ。
その黒猫さんにあるセリフを喋らせているが、
それが作品名をめぐっての言葉遊びになっている。
著者・西尾維新は2002年に20歳で作家デビュー。
ライトノベルとミステリを融合させ、独特の文体で評価されているらしい。
本作でも登場人物はけったいな名前を持っているが、
それも彼の作品に共通しているということだ。
とにかく饒舌な語り口である。
言葉遊びが多用されている。
しかし、ミステリとしては禁忌が用いられていたので、
作品の評価とは別に、ミステリとしては駄作に属すると思う。
串中弔士は中学一年。小串という姉がいる。
小串は奇人三人衆といわれていて、そのリーダー格。
天然ボケに影響を受けやすい口調。
友人には嘘つき黒理、一人生徒会の牢弥がいてUFO研に入っている。
一方、弔士は同級生に人間嘘発見器の不夜子を持ち、
静かなる人払い令・迷路と親交を持つ。
弔士は日常が過去綿者として捉え、退屈しきっている。
日常を変えようと画策し、迷路に将棋を教わったり、
黒理に告白してみたりしている。
そういう閉塞感を持っているところで、
時を刻むのを止めた時計塔から小串が突き落とされて死ぬ。
迷路を探偵役、弔士が助手として、犯人探しが始まる。
疑わしいのは誰だ。黒理も牢弥も不夜子も疑わしい。
果たしてむ弔士は小串を殺した犯人にたどり着けるのか。
ネタをばらす気はないが、この作品の不気味さは、
実は犯行の動機ではなく、人を支配する意思にある。
考えて欲しい。近しいものに殺意を抱くことはありえる。
ほんの些細な出来事に憤り、死ねばよいなんて激情に駆られることはありえる。
が、それが食卓の位置だったりするのは、
例え小説だったとしても受け入れたくない。
どこか投げやりに、どうなってもいいやと人を犯罪に押しやり、
近親者を殺させ、その上でのうのうとして欲望を満喫してしまう。
そういう人物は、現実の世界に転がっているものを見ているだけで十分だ。
この作品が、読者からどういう観想を受けているのだろう。
もし、共鳴があるのだとしたら、世の中が不気味なのだとしか言いようがない。
西尾維新という作家が評判になっていることは知っていた。
が、評判になっていても触手が動かず、今日まで詠まずに来た。
本屋に行けば、目立つ帯と表紙、
若者ならくすぐられるかも知れないイラストに飾られ、
これ見よがしに存在をアピールしていた。
読むとしてもシリーズものが多いようなので、
シリーズを避けようと考えていたら、見つけたのが表題作だ。
一言で評価すれば、遊びが過ぎる。
タイトル自身が遊びになっているようだ。
これ以前に
「 君と 僕の 壊れた世界」という作品があるのだが、
スペースにブとソとカを入れると、本作品名となる。
だからといって登場人物は共通していない。
例外は最後に登場する黒猫さんだけ。
その黒猫さんにあるセリフを喋らせているが、
それが作品名をめぐっての言葉遊びになっている。
著者・西尾維新は2002年に20歳で作家デビュー。
ライトノベルとミステリを融合させ、独特の文体で評価されているらしい。
本作でも登場人物はけったいな名前を持っているが、
それも彼の作品に共通しているということだ。
とにかく饒舌な語り口である。
言葉遊びが多用されている。
しかし、ミステリとしては禁忌が用いられていたので、
作品の評価とは別に、ミステリとしては駄作に属すると思う。
串中弔士は中学一年。小串という姉がいる。
小串は奇人三人衆といわれていて、そのリーダー格。
天然ボケに影響を受けやすい口調。
友人には嘘つき黒理、一人生徒会の牢弥がいてUFO研に入っている。
一方、弔士は同級生に人間嘘発見器の不夜子を持ち、
静かなる人払い令・迷路と親交を持つ。
弔士は日常が過去綿者として捉え、退屈しきっている。
日常を変えようと画策し、迷路に将棋を教わったり、
黒理に告白してみたりしている。
そういう閉塞感を持っているところで、
時を刻むのを止めた時計塔から小串が突き落とされて死ぬ。
迷路を探偵役、弔士が助手として、犯人探しが始まる。
疑わしいのは誰だ。黒理も牢弥も不夜子も疑わしい。
果たしてむ弔士は小串を殺した犯人にたどり着けるのか。
ネタをばらす気はないが、この作品の不気味さは、
実は犯行の動機ではなく、人を支配する意思にある。
考えて欲しい。近しいものに殺意を抱くことはありえる。
ほんの些細な出来事に憤り、死ねばよいなんて激情に駆られることはありえる。
が、それが食卓の位置だったりするのは、
例え小説だったとしても受け入れたくない。
どこか投げやりに、どうなってもいいやと人を犯罪に押しやり、
近親者を殺させ、その上でのうのうとして欲望を満喫してしまう。
そういう人物は、現実の世界に転がっているものを見ているだけで十分だ。
この作品が、読者からどういう観想を受けているのだろう。
もし、共鳴があるのだとしたら、世の中が不気味なのだとしか言いようがない。
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