ジョンの命日2010-08-25

8歳でやってきて、くまねこ家で暮らして1年半で、
たった1年半とは思えない溶け込みをしたジョンの、
3回目の命日となる。

あまりにも短い、でも濃密な思い出を作った。

昔からいたかと思わせてくれるほど、
『そらん』とぼくについて回ることでなじんだのに、
そんなに生き急がなくたってよかったのに。

リンパ腫という病には勝てなかった。

駆け足で去っていったジョンを惜しむ。

ジョンもまた『ごお』と同じく特別な犬だったと思う。

もう3年。まだ、3年。
あの世で気楽に軽快に走り回っていたら良いのになあ。
御伽噺がホントなら、
『ごお』とジョンと『そらん』とぼくで渡るのも良いな。
夫『はいら』も忘れてはいけないな。
『はいら』よりは長生きしてやらんとね。

下僕らしくない夏、だったのではないし。2009-09-13

義兄が亡くなってしまったり、AAの裁判が立て続けに開廷されたり、
仕事が忙しかったり、裏家業も忙しかったりで、
まったく心の余裕の無いままに、あらよという間に8月が過ぎ、
気がつけば9月も中旬になってました。

8月3日に八ヶ岳行きの記事アップしてから、
犬の下僕として何もしていなかったのかといえば、
もちろんそんなことは無く、(そんななら、ごくふつうに折檻を受けます)
さすがに8月15日から8月25日くらいまでは、義兄の死去で多忙を極めたので、
犬たちはほったらかしで、訓練士さんに預かっていただいたりもしました。
が、その後は週に一度のドギパ行きと、週一度の訓練参加は欠かさず行っています。
こういう日常が下僕にとっての喜びであります。

この1月あまりの犬たちの記録を一挙アップしておこう。

8月8日、15日、29日、9月5日、そして本日はドギパに行ってました。
これといった事件も無く無事。。。と、言いたいが先週は
ちょっとした事件が起きました。
事件のことはあとで。

8月3日、10日、17日、24日、31日、9月7日は訓練日です。
17日と24日はさすがに訓練に行ってやれなかったけれど、
他の日はちゃんと一緒に訓練されてきました。
情けないことに「そらん」はぼくを水に訓練しさんを見ながら作業してくれます。
もうちょっとしっかりしなくては。

8月16日から19日は2頭とも葬儀に行くためお泊りに行きました。
「そらん」は訓練士さんがいたら結構満足できるようで、
3泊4日のお泊りはルンルン気分だったよううです。
「はいら」は以前のお泊りでもそうでしたが、
帰ってきたその日から下痢をするという、
なんともいえない神経質さを持っていると判明しました。
毎夏お泊りの日があるのに、こんなことじゃ思いやられます。

とっても薄情なことに、8月25日のジョンの3回忌を失念していました。
数日前には覚えていたのに、
義兄の件でばたばたする間に、気がつけば8月27日になっていました。
忘れてしまった自分が少し悔しい。
忘れたことは仕方ないから、花だけ供えてあげました。
9月23日の「ごお」の命日に一緒に供養してあげよう。

9月5日の事件とは何か。
OPDESの訓練用のボールがあるのです。
ブンブンボールのようなものと思っていただければよいのですが、
あの紐の部分を飲んじゃうという事件がありました。
「そらん」や「はいら」ではなくドギパの看板犬ジロー君が、
ボール投げに参加していたとき、飲んじゃうことになっちゃいました。
結論だけ言うと無事に吐き出せたのでよかったのですが、
危うく回復しなければならないかもという事件になりました。
ジロー君、ボールを咥えるのではなく、紐が好きなんです。
運んできてボールの紐部分を咬み咬みしながら半分以上飲んじゃう。
取り上げると胃液がついているという状態。
だから普段は注意して早めに取り上げるのですが、
この日は取り上げるが一瞬遅れてしまったよう。
胃の中に20センチくらい紐を納めたまま、
付け根側の紐をガジガジするうち噛み切ってしまった。
さあ大変。あんな長い紐、絶対に下からは出ない。
応急処置をしたあとすぐさま獣医に直行。
無事吐き出せたからよかったものの、出なければ開腹です。
紐側をカミカミするい犬がいたら御用心、御用心。
ううーん。これからひも付きボール持っていけんぞ。
寄る年波でボールを投げられなくなった僕としてはつらいなあ。
「そらん」は遠くに投げてやらんと燃えんのだ。

とっても大変だった今夏。
下僕と犬たちの日々でした。

ジョンの記念日。『ボス』ちゃん、持ち直す。2009-02-13

3年前の今日、ジョンと僕は初めて会った。

『ごお』を喪Zてから約4ヶ月、『そらん』と僕は寂しかった。
保護団体の主張もわかるから、どうせなら行き場を喪った犬を引き取ろう。
最初は子犬を探していたけれど、途中で方針を変えて探し始めた。
いくつかの団体にメールをしたが、
ゴールデンに限定していたことと、居住地の問題等があり、
なかなか条件に合う子が見つからなかった。

説明では多頭飼いは無理としていたものもある。
僕の家族構成では、無理と思われたものもある。
僕が、引き取るのにあたって、寄付金を寄越せという条件のものを除外したことも、
見つけるのに時間が掛った点だ。

いろいろ考えると、保護団体経由では難しいと思い、
『里子里親』
http://www.satooya.com/
『いつでも里親募集中』
http://www.satoya-boshu.net/
の個人からのSOSを中心に連絡を取ることにした。

いくつか空振りが続いた後、
漸く双方の条件があったのが、ジョンだった。

実はジョンの正確な誕生日は知らない。
だから、ジョンの誕生日は今日ということに決めたのだ。

僕の家では、もともと誕生日など気にしていなかったし、
ジョンの血統書が欲しいとも思わなかった。
ぶーリードするわけじゃ無し、
『そらん』との相性さえ合えば、それでよかったのだ。

ジョンの飼われ方や生活ぶりは、
嘘偽り無く書かれていると思っていたし、
現に家の近くでリードを持ったとき、
人に対するおびえを見せず、ごく自然に散歩できた。
それだけで僕は飼う気になっていた。

このあたりのいきさつは、2006年2月の記事を見てね。

ジョンが逝ってしまってから1年半。
遠い昔の様でもあり、つい機能のことのようでもある。
たった一年半の我が家での生活、楽しかっただろうか。
楽しかったと思っていてくれたら嬉しいなあ。


『ボス』ちゃん、今のところ元気です。
『ボス』ちゃんは1/10ほどは僕の犬といえる。
とにかく寝たきりになってでも、『ごお』の文まで長生きして欲しい。

『ボス』ちゃんの元気回復のためにニュートリカルなs@を買ってきた。
体力回復目指して、協力するのだ!

ジョンの命日2008-08-25

8月25日。ジョンが逝ってしまった日だ。
ジョンを偲んで思い出を語る日にしたかったが、
あいにく雇われ人だから、かんたんに時間を取れるわけもない。

昨年7月3日に獣医でリンパ腫の疑いがあると聞かされてから、
力尽きて息絶えるまで50日強。
闘病中はさぞや辛かったろうに、僕に迷惑をかけまいとしていた。
体がえらいだろうから室内で粗相したって仕方ないと思っていた。
ふらふらの状態になったときでも、勝手口まで這っていき、
扉が閉まっているためお漏らしして、切なそうに僕を見ていた。
後片付けをしていたら、ごめんとでも言うように恐縮していた。

ジョンは8歳になって家に来た。
僕に対しては最初から甘えていたように思うが、
「そらん」にも、母にも、その他家族にも甘え方がわからず、
来た頃は「そらん」に遠慮し、母に遠慮し、
家での生活を緊張した状況で迎えた。
時が経つにつれ少しずつ、ほんとに少しずつ馴染んできて、
やっと解放された表情で、我が家での生活を楽しみだしたばかりだった。
病気の発覚前に行った八ヶ岳では、
「そらん」と互角に張り合いマウントされれば怒れるほどになり、
泳ぎ、走り、自由な疾走をして見せた。
心から家での生活を楽しめるようになっていたと思う。
来た当初は痛んでいた関節も、各種サプリが効いていたのか、
「そらん」と併走するほどの姿を見せていた。

ほんとうに、叱るところのない犬だった。

無常にもジョンがジョンらしく楽しめるときは短く終わった。
駆け足で去って行ったジョンだけれど、
いつまでも「よい犬」だったと僕は記憶していく。
たった一年半が、振り返れば長い時間だったと感じる。

歯が浮くようなことを言う。
どうか「ごお」と一緒に走り回って待っていて欲しい。
いつか、いつになるかはわからないけど、
「そらん」も僕もそこに行く。
もし僕に文句があったのなら、その時聞かせて欲しい。
でも、できるなら僕といてよかったといって欲しいけど、

ジョンと暮らした日々は忘れられない記憶だよ。

ジョンの一周忌2008-08-17

早いものでジョンが亡くなってもうすぐ一年が経つ。
命日は8月25日。
来週に時間が取れる見込みがないから、
今日思い立って一周忌の法要に行くことにした。
9月23日が命日の「ごお」の追善供養も一緒に行うことにした。

ジョンは途中から一緒に暮らしたハンデを乗り越えて、
僕にとっては「ごお」に匹敵する相棒になってくれた。
「ごお」は僕にとってはこれ以上が望めないほどの犬だったけれど、
ジョンだって「ごお」に遜色がなかった。
きっと、はじめから一緒に暮らしていたら、
最高の相棒になっていたのだろう。改めてそう思う。

蕎麦湯が好きで、スイカが大好き。
いつでもくっついていたくて、車中泊をしたら僕にに寄り添う。
僕が呼べば、必ず一目散に走りよってきて、
決して荒ぶることなく、温和で従順で、優しい目で微笑む。
二頭に共通することは多い。
まるで連続していたひとつの命であったのかと思わせるほど。

「ごお」にしても、ジョンにしても、早すぎる死が悲しくて仕方ない。

遺骨を納めた骨壷と二頭の最高の写真を持って、
4時から読経をあげてもらった。
また会えるなら会いたい。もう一度暮らしたい。
願いがかなうなら、今度こそは病に冒されることもない、
穏やかな一生を過ごさせてやりたい。

僕の体の状態では、30年も40年も待たせることはないだろう。
虹の橋なるものがあったとしたら、忘れずにいておくれ。
また、一緒に暮らそうな。

そんなものがなくたって、今もお前たちは僕の中で生きている。

遺骨を土に返すには、いまだ早すぎる。
もう少し辛抱しておくれ。
広い大地に帰すには思い切りがつかないのだから。

もしかしたら2008-06-10

レトリーバーという雑誌がある。
レトリーバー・ファンの人が愛読するものだ。
僕は、雑誌というものはほとんど買わないので、
何回か見たことがある程度のものなのだが、
表紙は「これぞレトリーバー」という表情の犬がいて、
買ってもいいかなあなんて気にさせてくれる珍しい雑誌だ。

そのレトリーバーが6月13日に発行されるそうなのだが、
綴じ込みに、犬とのお出かけマップなる特集が組まれるらしい。
「そらん」のHGのドギーズ・パークも載せられるということだ。

その記事に、僕の撮った「そらん」とジョンの写真が載るかもしれない。

僕の犬たちは、とっても良い子なのだが、
無名の名犬になるので、雑誌に載るようなことは稀。
「ごお」と「ボス」はオフ会に取材が入って、
「愛犬の友」1998年3月号に小さく写真が載ったのと、
パートナーズハウスの紹介記事の載った「毎日ペット新聞」
2003年夏号に「ごお」の入湯写真が載ったことがあるだけ。

もし今回、「そらん」の写真が載ったら、3回目の快挙になる。

まもなく発売なので、買ってきて見よう。

ジョンと暮らした1年半2007-11-20

ジョンとの暮らしを思い出し、想いながら書こうと思っていたのに、
あれやこれやで書けずにいる。
そうこうしている間に、49日も過ぎ、
『そらん』のためにももう一頭と思って、探し始めたら、
ひょんなことから突然『はいら』が来ることになってしまった。
『そらん』は『はいら』が来たおかげで寂しくなくなったようで、
とても喜んでいる。

でも、僕はジョンとの暮らしの総括ができていないから、
内心は複雑に揺れてもいるのだ。

ジョンは不思議なほど馴染んでくれた犬だ。
『ごお』にはかなわないかもしれないが、特別な一頭と感じさせてくれた。
なんか、いなくなったことが不思議な気がしている。
『ごお』に残していた贖罪の意識まで、きれいに拭い去ってくれた。
『そらん』のよさを際立たせていきもした。

実のところ、ジョンのような犬に出会えるのなら、
もう一度引き取ることも考えていた。
あのAAの存在さえなければ、どこかの団体に申し込んだかもしれない。

ジョンは川で泳ぐのが好きだった。
たった4回しか連れて行って上げられなかったけど、
リバーランドでは、ダイナミックに泳いでいた。
http://blogs.yahoo.co.jp/kumanekonano/26442157.html
3枚目と4枚目がそのときの写真だ。

家に来たころの、あちこち痛いといっていたのが嘘の様に元気な泳ぎを見てやって欲しい。

ジョンの本当の49日2007-10-13

ジョンの49日はの法要は、
都合で『ごお』の3回忌と一緒に行った。
10月13日は、ほんとうの49日にあたる。

『そらん』がいるから、なんとなく忘れた振りはできるけれど、
実は、とてもさびしい。
ジョンときたら、ほんとにいつでもそばに居たんだ。
『そらん』はマイペースなやつだから、したいようにしているだけ。
『ごお』でさえ、時には僕から離れる時間を持っていた。
だけど、ジョンはいつでもそばにいた。
僕が家にいる限り、僕の後を、どこにでもついてきた。
何かして、などとは言わない。ただ、そばにいた。
時々は、遠慮がちに足元に来て、
お暇でしたらかまってください、
とでも言うように舐めたり、袖を引っ張ったりもしたが、
控えめにして、じっと待っていることが多かった。
ほんとに片時も離れない。
そのジョンがいない。

ジョンの不在は、『そらん』にも影響している。
『そらん』もジョンがいたら、退屈したら縫いぐるみを持ってきて、
ジョンの鼻先で振り回し、口に押し付け、
引っ張りっこに誘ったり、ジョンとくっついて眠ったりしていた。
時には、ジョンもやる気を見せて、
『そらん』の後を追いかけて階段を降りたり上がったり、
追いかけ追っかけられ、『そらん』と一緒に騒いでいた。
そして、二人で遊び疲れると、
ベッドの上で仲良く並んで、僕を見ていた。

ジョンがいなくなって、なんとなく家は沈んでいる。

13日は、かねてから予定されていた仕事が入っている。
法要は済ませているとはいっても、
本当ならなにかをしてやりたいと思う。
忙しくて何もできないから、せめて花一輪、用意してやろう。


49日が済めば、服喪は終わり。
そろそろいろんなこと考えなければ。

ジョンの49日2007-09-23

早いものでジョンが逝ってから一月が経つ。
今日は彼岸。『ごお』の3回目の命日だ。
ジョンの49日には、まだ早いけれど、『ごお』と一緒に法要してもらった。


ジョンの最後は、『ごお』と違い、家族がいる家で、
それも『そらん』の寄り添われて、静かに逝った。
今思えば前日の夜から、徐々に死んでいきつつあったのかも知れない。
『そらん』に呼び戻され、僕に呼び戻され、
徐々に体が死に近づいていくのだけれど、
何とか気力を呼び覚ましてこの世に留まろうとしていたのだと思える。


全体の力は入らずぐにゃぐにゃなのに、四肢は硬直し始めていたから、。
硬直をほぐそうと、脚を手をマッサージすると、我慢してさせているけれど、
終わると手を舐めに来て、もういいとでも言いたそうに見えた。


亡くなる前日、入院を真剣に考えた。
そう考えさせるほどに、ジョンの命の灯火が弱っていた。
ご飯も食べられないから、病院に行こうというと、悲しげに見る。
クルマに連れて行こうと抱え上げようとすると、
病院には行かないとでもいうように、自分の力で立って見せた。
だから家に居させてやることにしたのだ。
病院に連れて行かないと決めたから、
流動食を口に持っていき、食べろというと、懸命に食べた。
最後の日、東京に向かう前にジョンにがんばれというと、
じっと僕を見つめ、門扉を閉めるまで、その姿勢を崩さなかった。
そのときの表情は苦しいというものではなく、
じっと静かな微笑む表情だったように思える。


スイカが好きで、蕎麦湯が大好き。川遊びも大好きだったジョン。
『ごお』と入れ替わりにやってきて、
『ごお』を時には忘れさせてくれたジョン。
『そらん』を慕い、、僕を全面的に信じたジョン。
もしかしたら、空の向こうで『ごお』と一緒に語らっているかもしれない。


寂しさは、『そらん』も僕も、強く感じている。
ジョンがいなくなった日から、『そらん』と僕は寄り添って眠っている。

『ごお』3回忌2007-09-23


『ごお』の晩年は『そらん』に触発されて豪快な飛び込みを見せていた。
これが癲癇に怯える毎日での一こまだった。
こんな姿が見たいから、僕は日常を一切変えなかったのだ。
それがよかったのか、悪かったのか、時々わからなくなる。
でも、『ごお』の姿には喜びが溢れ出ていた。僕は信じている。



写真は『ごお』が、もっとも『ごお』らしく写っている。
6歳の夏の写真だ。『そらん』が来る直前のころに撮った。
『ごお』は僕にとって、初めて真剣に付き合った犬となった。
ある人の言葉を借りれば、
『目の中に入れたり出したりして育てた』のだ。
僕にとっては奇跡の犬だった。


『ごお」が逝ってしまって早2年。3度目の命日がやってきた。
今でも、『ごお』を病院において別れた時の、
一緒に帰ろうといった顔は焼きついている。
去年の一周忌には、まだぼろぼろと涙か出てきた。
すまなさが、後悔が、いっぱい残っていた。
今日の法要では悲しさは感じるものの、涙となって落ちはしなかった。
ジョンの看病に悔いを残さなかったことで、 『ごお』に残していた『後ろめたさ』を、
ジョンが天に帰るときに一緒に持って行ってくれたようなのだ。
『ごお』のような犬に出会えたことが幸運だっただけでなく、
ジョンと出会えたことまで、幸運だったというしかない。
この幸せを運んできたのが『ごお』だったのだ。



できることなら、『ごお』ともう一度暮らしたい。
例え11ヶ月に渡った癲癇との戦いが繰り返されてもいい。
今度はもっと上手く対処できる。今度゜はもっと楽しんでやる。



もう一度だけ『ごお』の笑顔に合いたい。
夢見るような幸せなころに戻りたい。