変な家2022-03-09

雨穴

最近はあまり見なくなったが、
新聞の折り込み広告などの間取り図を眺めるのが好きだった。
まあ世の中にはいろんな間取りが存在していて
ときおりとんでもなく無意味な間取りに出会うことがある。
かつてそういう間取りばかりを載せた親書「間取りの手帳」が出された。
「間取りの手帳」はめずらしく手元に置いてある名著と思っている。
この一冊のみしかもっていないが間取りファンというのは存外に多くて
以降、同種の書籍がよく出されてきた。

実は本書もそういう書籍と早とちりして買ったわけだが
実はホラーあるいはミステリ小説だった。
ワンアイデア小説なので、精一杯恐ろしげに書いているが
我田引水的な無理やりこじつけに思える部分もあり、
たいして売れるものとは思えないのだけれど、
20万部越えと大ヒットしている。

間取り図は全部で三種。共通するのはどこかに不思議な小空間があるということ。
発端となる建物は外部と面する窓のない子供部屋を持つ家。
用途不明の空間もある。
その家を調べるうちいろいろな情報が異常を知らせる。

果たして真相は?

そういうお話である。

裏切られ信長2022-03-10

金子拓

歴史小説ではなく、歴史研究者が一般向けに書いたもので、
信長と同盟関係にあった浅井長政、武田信玄、上杉謙信、毛利輝元ら戦国大名と
松永久秀、荒木村重、明智光秀ら家臣が
どのようにして信長を裏切るに及んだかを考察している。

家康との清州同盟以外は、戦国大名との同盟関係は物語に現れないことが多いが、
資料からいつまで友好関係が保たれていたかを見ていき、
信長外交の特性が、どうやら信長の性格・思考法に難があるようだと指摘する。
家臣の裏切りについても同様で、
信長という覇者は恐ろしく不器用だったと思わせる。

決断力に富み苛烈な男というイメージが崩れ去り、
心の機微が分からない情けなさに見えてくる。
同盟者であったらかわいいが、ひとたび対立されるや憎しみを持つ。

ここに見る信長を反映させた小説を書こうものなら、
哀れな信長物語になってしまうだろう。

大怪獣のあとしまつ2022-03-11

橘もも

映画のノベライズである。
映画のノベライズとしてありがちな軽さである。

怪獣映画は昔好きだった。よく見た。
巨大生物が暴れまわって破壊の限りを尽くすが
人類または異星から来たヒーローによって退治される。
ふつうはここで物語が終わってしまうのだが
そこからを描くのがこの作品となる。

巨大怪獣をどう処理するかはウルトラマンだったかセブンだったかで
シーボーズを怪獣墓場に送り届ける回くらいしか記憶にない。
たしかに死がいの処理はいろいろと面倒がありそうだ。

巨大生物を観光資源にしようとしたり、
その処理をどうするかで組織間対立が生まれたり、
そういうのは起こりうるだろうなと思う。

そこのところをもっと上手に描き切れば素晴らしい小説になるのに、
映画から逸脱しきれていないようでうすっぺらな物語になっている。
怪獣と戦うのではなく、後始末に立ち向かうヒーローというのが面白さなのだろうが。
もっと人間の無責任さをえぐったら良かったと思う。

朝倉秋成を3作ばかり2022-03-12

この人が注目を浴びる話題の作家と知り、
平積みされていた「教室が一人になるまで」を読み、
面白いのだけれど手放しでほめそやすには腑に落ちない思いもあり、
「フラッガーの方程式」それから「九度目の十八歳を迎えた君と」と
立て続けに読んでみた。

ただ楽しいだけの「フラッガーの方程式」なら
この人の作風はいいと思うのだが、
重い主題の他の2作では。こういう手法じゃないほうがいいと思った。

SFでもなくミステリでもない。青春小説といってよい。
それも苦悩する青春の痛みを描いた「教室が一人になるまで」には
限定的特殊能力を設定せずとも書けるだろうと思ってしまう。
「九度目の十八歳を迎えた君と」は、どうにか納得できたというところ。

「九度目の十八歳を迎えた君と」は、高校で片思いしていた同級生が
当時と変わらぬ姿でいたのを見て、なぜ年齢を止めてしまったのかという
その原因を探すうち、彼女と同じ状況下にある自分を発見する物語になっている。
高校時代の片思いの日々の回想部分は、かなりな人たちが経験してきたことだろう。
そういう点では秀逸なのかもしれない。
が、物語として受け入れるのはつらかった。
面白くないというつもりはない。率直に書けば一気読みできる。
登場させている人物たちもなかなかによい。
だけれど、わざわざ年齢が進むのを拒否する能力なくともかけたんじゃないかな。

「教室が一人になるまで」は、学校の教室の中の力学を題材にする。
次々に自殺する4人の級友たち。ところが自殺ではなく殺人だという。
嘘を見破る能力を突然引き継ぐことになった主人公が
人の好き嫌いが分かる能力者とともに犯人探しを始める。
その特殊能力は高校の敷地内のみで効果を発揮し、
それぞれに異なる発動条件があるらしい。
果たして犯人にたどり着き、復習ができるかというストーリーになる。
物語自体はよくできているし、決着のつけ方もどうにか納得できたが、
あまりにも無理やりが感じられ感心はしたが受け入れきれなかった。
みんなで一丸となって行事に取り組む最高のクラスにしようと頑張る生徒がいる。
そういうことがなじめない生徒だっている。なんで一人ではいけないのか。
僕も子供のころの立ち位置は近いものがあった。
だから物語りとしては染みるだけに特殊能力などない形が望ましいと思った。

「フラッガーの方程式」は、誰もをヒーローにするフラッガー・システムなる装置が
数々のドタバタを巻き起こしていくというSFタッチで読むと楽しい。
こういうタイプの小説なら、特殊設定も突っ込むことはせず、
だまって受け入れ楽しく読めばいいのだ。
テスター参加した彼の片思いを成就させたいという願いの暴走ぶりが笑いを生み出す。つシステムが停止したのちも影響がのころのは当然っちゃ当然なので
テスターにとってのハッピーエンドもよきかな。

この人の作品はもう少し読んでみようかと思う。

迷犬マジック2022-03-13

山本甲士

犬物を見かけたら買ってしまうのが癖だ。
だんだんと当たりが少なくなってきているのはどうしたわけだろう。
どれも犬好きが喜びそうなストリー。
さすらう犬が幸せを運ぶ。犬に助けられる。同じような物語ばかり。
それもだんだんと作品の質が劣化しているように感じる。

個々の作品について、面白くないとか、駄作だとかいう気はない。
どれも一応最後まで読める。が、心に響くものはない。
過去に書かれた作品の焼き直しかと思うわけだ。
「五郎丸の生涯」もそうだった。「迷犬マジック」もしかり。

どこからか現れた迷い犬風の、
だが人語を理解するがごとく思わせる犬のマジックが、
次々と迷える人を不思議と救っていくという。
ただそれだけの物語。

犬に救われる物語にあまり出会ってない人なら薦めてもよいが、
何作かでも読んでいる人にはお勧めしません。
だいたい犬と暮らすことを軽く書きすぎです。

この著者の作品は「おれはダメなんかじゃない」しか読んでいないが、
作品の出来としてはより軽くなってしまったと感じている。
こういう作風が受ける時代なのだろうね。

どうした犬だ。2022-03-13

週に一度のドッグ・ラン。
本日は2時間半ばかり走っていました。
そのあとシャンプーして帰宅。

ドッグ・ランで爆走し、だいたいいつもバカほど水を飲みます。
今日も2リッター以上飲んでいたように思います。
GDVも怖いから、あまり無尽蔵に飲ませないようにしているのだけれど、
それでも2リッター。
ほっとけばもっと飲みます。

以前、家に帰ったとたん室内で長々と放尿されたこともあり、
いつもは帰る前に施設で散歩しておしっこをさせます。
天理でもう一度おしっこさせ、帰宅してから今一度おしっこタイム。
それで何とかおもらしが防げていたけれど、
今日は天理につくまでの間に車内で大量のおもらしをした。
天理でも大量の放尿をしたのに
で、帰宅後に散歩に行ったら、また長々と放尿。

どんだけじゃい。

拾い続けてウン十年2022-03-14

子どものころは周りには家が少なく
生垣だった家がブロック塀で囲われるまでは
庭に設置されたブランコに係留して犬がいた。
リードにつないで散歩するなど、ほとんどない。
行きたければ犬たちは首輪抜けしたりして
勝手にお出かけしていき、
いつの間にやら粗末な犬小屋に戻っていた。

クルマなんてほとんど走っていない。
自家用車なんて珍しい時代だった。
散歩中に事故にあうこともまれだった。
周辺は田んぼと畑と藪ばかり。放し飼いが普通だった。
犬同士だって強弱の決着がついているから
めったなことで闘争は起きない。
放し飼いの犬同士が緩やかな集団化しているといった様子であった。
ダイタイ出会えば、誰かしらの飼い犬であってじゃれ合う始末。

それが家がどんどんと建ってきて田畑は宅地にかわり、
藪とか野原がどんどん減り、ため池は埋め立てられ、
やっぱり宅地にかわっていく。
道路が新しくでき、舗装化が進み、クルマがどんどん走り出す。
急激に増える人口は、地域の結びつきを希薄にし、
似た年齢でもなければ、子ども同士ですらどこの人やらわからなくなる。
当然のことながら、犬や猫だってどこの家にいるやらわからなくなる。
犬、猫が一人で歩いていると危険だとなる。

もともと犬は繋いで飼いましょうとおかみが指導していても
よほどの問題犬でなければ誰も従っていないという感じだった。
ウンチだって4土がある場所では数日で分解されてしまう。
多少の糞は目こぼしされていた。

時代の波には逆らえぬ、リードにつないで散歩するようになってきた。
それでも土手がある。未舗装の道に荒れ地もある。
散歩中の犬の糞は放置か、せいぜい土をかぶせるくらいしかしない。

いよいよ家が増えてくると、土が見える地面がなくなり、
犬の糞が不衛生、美観を損ねるとなり、
犬飼たちは拾わなければ社会的悪とされるようになった。

僕の住む町でも、そのようになってから50年がたつ。

だから散歩中に犬の糞を拾い始めて50年以上がたったわけだ。

飼い犬といっても、今の犬たちのように世話の中心にいたわけではなく。
気が向いた時だけ連れていく、子どもにありがちな付き合い方だったので
「ごお」を飼い始めるまでは1000個も拾っていないように思う。

自分の意思で飼い始めてからは、
退職までの期間は毎日2回の散歩に連れ出している。
「ごお」だけでいたときは、一日1回しか排便しない犬だった。
時には朝晩とも排便したが、敷地内でするときもあり、
「そらん」が来るまでに拾ったうんこは4000個といったところだろう。
「そらん」が来てからも1000個ほどは拾ったろうから
生涯で5000個拾ったことになる。

「そらん」は朝晩2回きっちり排便した。
当初は「ごお」を見習い敷地内で用を足すこともあったが
「ごお」がいなくなってからは、散歩中にしかしなくなった。
だから「そらん」のウンチは1万個以上拾ったことになろう。

ジョンははじめは散歩中にウンチをしなかった。
散歩に連れ出そうとすると、敷地内で済ませてしまう。
時が経つにつれ散歩中にもするようになっていったが
うちにいた500日くらいの間に300個ほど拾っただけ。

「はいら」もジョンと似たところがあった。
散歩が終わってから家に戻りリードを放したら排便する。
そういうところがあった。
昼間は玄関のドアを開け放していたから
敷地内で済ましていることも多々あった。
だから生涯で散歩中に拾ったウンチは5000個ほどのように思う。

「まこら」を迎えてからは、一日3回散歩する。
「まこら」は敷地内では排便したくないようだ。
その代わり3回の散歩のたびごと必ず排便する。
ほんの少しだけでもひねり出す。
さらに一度の散歩で2度することだって多い。
だからすでに5000個近くは拾ったと思う。
200枚入りのウンチ袋が2か月持ったためしがないのだ。

自分の犬のウンチを散歩中に拾った数は2万5千個余りとなる。
「まこら」が生きている間は1日3個以上を拾い続けていく。
犬を飼うということはうんちを拾い続ける決意がなければ
絶対にやめることだ。

なんでこんな話を書いているっかといえば
最近散歩中に放置うんこをよく見るようになった。
数年前にはほとんど目にすることがなかったのに、
最近では毎日毎日新しい放置うんこを見る。
昔から知っている飼い主は拾っているから
この一、二年で飼い始めた人が放置しているのだろうと思う。
たまにはそれらのウンチをついでに拾いはするものの、
全部を拾えと言われても無理だ。
この前など、「まこら」のウンチだろうと言い、
拾えと強要されたこともあった。
大型犬のウンチだったので誤解されたのだろうが
気分のいいことではない。

拾っていかない気持ちがわからないわけではないが、
いまの住宅地では許される行為ではない。
うんちを放置する人が増えてしまうと
また公園に立入禁止の札が経ち、
散歩中に住人から白い目で見られることになる。
覚悟がないと買ってほしくないと考えてしまう。

きみはだれかのどうでもいい人2022-03-14

伊藤朱里

県の納税事務所に勤める4人の女性の物語が絡み合う。

触媒は須藤深雪という、統合失調症なのか、それとも別な何かなのか、
心配りができない。てきぱきできない。言われたことしかできない。
手際が悪い。その他もろもろ。
とにかく他人をイラつかせる人物が務める。
4人は、それぞれ何らかの傷を持っている。
その傷に須藤深雪は、その存在がいるだけで、波風を立たせる。
それぞれの傷らしきものと須藤深雪が絡み合う時
それぞれが、それぞれなし方で須藤深雪を傷つける。
そして心が壊れた須藤深雪が記憶喪失になり退職する。

退職した彼女の両親が職場で何が起きていたかを追求する。

その過程で、追い込んだのが自分だと白状する女性の第4章で
作品に流れる基調が明らかになる。
人は必ず誰かを傷つけている。自覚的であれ、無自覚であれ・
そうした行為について人は誰もが「忘れるけれど、許さない。」のだ。

須藤深雪は、すべてを忘れるだけだ。許さないという救いを与えない。
そういう点では一番卑怯な存在でもある。

無垢であることが、誰かに血を流させることだって多いのだ。

落花2022-03-18

澤田瞳子

澤田瞳子は読んだことがあるように思っていたがはじめてのようだ。
澤田ふじ子と混同しているのかも。

天皇の従兄で真言宗の声明の大成者僧・寛朝が語り部となり、
平将門の人物を浮かびあがらせていく。

寛朝の声明を求めての東北下向中に将門との邂逅があって、
将門の姿に理想の音を見出し、音を求めての交遊を描いている。
「将門記」が下敷きとしてある。

作品中では寛朝従者に千歳という卑賎の出の音曲の天才を配し、
その野望が人々を惑わせていき、将門の反乱が大きくなっていく仕掛けが施される。
寛朝は後に千歳の中に自分を見る。

坂東に生まれた気風が、寛朝に新たな風を感じさせて終わる。

将門の造形は反逆者でも英雄でもない。
坂東という地域の持つ荒々しさの中で、
ただ自分の周りの者の幸せを与えんと欲した、
政治感覚の欠如した
お人好しで力に依存するものとして描かれる。
彼の懐に入れば、無垢な者はさわやかさを感じるのだ。
そのありように寛朝は強く惹かれる。
己が欲望に利するため嘘を並べ立てる輩が、
将門の力を利用しようとし、
さらに千歳が欲望の成就に向け親王を巫告し、
将門周辺が親王を寿いだがため朝廷と対立することになる。。
政治的な危険を知らせる寛朝に対し、
将門は懐にいるものを見放せぬと言い、破滅に向かう。

この辺りの描き方は、他の作品にない新しさといえる。