保護活動を語ろうか。その前に、 ― 2007-01-17
捨てられた犬や猫などのペットを保護し、
新しい飼主に引き合わせるという行動に疑問がある。
昨日、僕はそう書いた。
情においては認めているが、論理的に矛盾していると思っている。
なぜか、そそれを述べる前に、僕の今を記そう。
「ごお」が死んだとき、悲しくて寂しくて仕方なかった。
「そらん」がいて最悪には到らなかったが、
「そらん」ともども「ごお」の不在が耐えられなかった。
だから、子犬を迎え入れようとしていたところが、
このブログを立ち上げたころである。
いろいろ迷った末、縁あってジョンを引き取ることとなった。
成犬から飼い始めるのは、犬と一緒の生活を意識して以降、初めてのことだ。
ジョンは飼育困難となった犬であるものの、
虐待などされていないし、最初の飼主とつなぎの飼主共に、
放置していたわけでもない。
その時々の条件下で、できる範囲のことはし続けていたと思える。
ジョンは人の手を怖れてはいないし、
犬は苦手でも怖れて威嚇したりすることもない。
食事のしつけもできていたし、排泄場所への理解もあった。
成犬から飼うとのは難しいかなと思っていたが、
拍子抜けするほど楽チンだった。
ジョンは僕に懐こうとしていたし、健気に学習もした。
だから可愛いと思っている。大事に飼っているはずだとも思える。
が、子犬から面倒見てきた「そらん」までの犬と比べ、
ジョンとの関係はギクシャクしている。
どうしても僕の接し方を自然に受け入れきれないジョンがいて、
ジョンの反応に戸惑ってしまう僕がいるのだ。
ほぼ1年経った今でも、僕とジョンとの間にある違和感がなくなることはない。
家庭犬としては文句なしのジョンにしてからが、
犬との付き合い方が下手とは言い切れない僕でも、
埋めきれない違和感が残るのだ。
これがさまざまにトラウマを持つ犬との関係だったとき、
果たして保護団体が言うようなすばらしい犬との生活を体感できるのか。
子犬ならできるだろう。だが成犬ではうまくいくとは限らない。
成犬を引き取るというのは、相当の覚悟と根気と知識が要求される。
そういう意味では、引き取った犬がジョンだったことは、
僥倖であったとしか思えないのである。
さて、多くの保護団体が愛護センターから犬を引き出し、
人への信頼感を取り戻させた上で、
家庭犬としての適正が発揮されるようにしてから、
新しい家庭との橋渡しを企図している。
引き取った家庭が行き詰ったとき、適切なフォローすら行っている。
こういう試みは高く評価できる。
だが対症療法でしかありえないとも思うのだ。
保護団体の目的は以下の点にあると考えている。
安易な飼育放棄の防止と啓蒙
無節操な子犬製造現場の根絶と啓蒙
ペット虐待根絶に向けた啓蒙
殺処分される犬の根絶
(もし違っていたら不勉強をわびるしかない)
これらは不可分なものではあるものの、
順位付けとしては上にあるものほど優先されなければならない。
ところがARKは別として、
多くの場合眼前の生命を助けるところに力点が置かれ、
より進めなければならない啓蒙活動が放置されている。
これでは卵にわとり論になってしまう。
逆に引き出すのではなく、殺されていく犬の頭数を目に見える形で、
犬の飼主の名前入りの日報として出すほうが効果的ではとすら考えてしまう。
(現行法制化では、そんな日報が出せるわけもないが。)
どれだけ助け出そうと、入り口論を整理していないと、
遺棄も虐待も殺処分も減りはしない。
情においては認めるが、
論理的に矛盾を感じている原因はこの辺りにあるのだ。
ひろしま事案は、衰弱していた犬を健康な状態にもどすまもなく、
家庭犬としてのしつけも十分に入れたとはいえない状況で、
それぞれ新しい飼主の元に送り届けて終わってしまっている。
わずか一団体が無謀な計画を推し進めたことは、
今後の救出活動、情においては認めてはいるかかる行動にも、
手痛い影響を残していくのではないかと思っている。
不透明な経理も問題だが、安易な譲渡姿勢がもたらす弊害のほうが大きいと思える。
こんご、ひろしまの犬を引き取った家庭から飼育放棄が発生した場合、
場合によっては、保護団体全体に与える打撃は致命的になるのではなかろうか。
新しい飼主に引き合わせるという行動に疑問がある。
昨日、僕はそう書いた。
情においては認めているが、論理的に矛盾していると思っている。
なぜか、そそれを述べる前に、僕の今を記そう。
「ごお」が死んだとき、悲しくて寂しくて仕方なかった。
「そらん」がいて最悪には到らなかったが、
「そらん」ともども「ごお」の不在が耐えられなかった。
だから、子犬を迎え入れようとしていたところが、
このブログを立ち上げたころである。
いろいろ迷った末、縁あってジョンを引き取ることとなった。
成犬から飼い始めるのは、犬と一緒の生活を意識して以降、初めてのことだ。
ジョンは飼育困難となった犬であるものの、
虐待などされていないし、最初の飼主とつなぎの飼主共に、
放置していたわけでもない。
その時々の条件下で、できる範囲のことはし続けていたと思える。
ジョンは人の手を怖れてはいないし、
犬は苦手でも怖れて威嚇したりすることもない。
食事のしつけもできていたし、排泄場所への理解もあった。
成犬から飼うとのは難しいかなと思っていたが、
拍子抜けするほど楽チンだった。
ジョンは僕に懐こうとしていたし、健気に学習もした。
だから可愛いと思っている。大事に飼っているはずだとも思える。
が、子犬から面倒見てきた「そらん」までの犬と比べ、
ジョンとの関係はギクシャクしている。
どうしても僕の接し方を自然に受け入れきれないジョンがいて、
ジョンの反応に戸惑ってしまう僕がいるのだ。
ほぼ1年経った今でも、僕とジョンとの間にある違和感がなくなることはない。
家庭犬としては文句なしのジョンにしてからが、
犬との付き合い方が下手とは言い切れない僕でも、
埋めきれない違和感が残るのだ。
これがさまざまにトラウマを持つ犬との関係だったとき、
果たして保護団体が言うようなすばらしい犬との生活を体感できるのか。
子犬ならできるだろう。だが成犬ではうまくいくとは限らない。
成犬を引き取るというのは、相当の覚悟と根気と知識が要求される。
そういう意味では、引き取った犬がジョンだったことは、
僥倖であったとしか思えないのである。
さて、多くの保護団体が愛護センターから犬を引き出し、
人への信頼感を取り戻させた上で、
家庭犬としての適正が発揮されるようにしてから、
新しい家庭との橋渡しを企図している。
引き取った家庭が行き詰ったとき、適切なフォローすら行っている。
こういう試みは高く評価できる。
だが対症療法でしかありえないとも思うのだ。
保護団体の目的は以下の点にあると考えている。
安易な飼育放棄の防止と啓蒙
無節操な子犬製造現場の根絶と啓蒙
ペット虐待根絶に向けた啓蒙
殺処分される犬の根絶
(もし違っていたら不勉強をわびるしかない)
これらは不可分なものではあるものの、
順位付けとしては上にあるものほど優先されなければならない。
ところがARKは別として、
多くの場合眼前の生命を助けるところに力点が置かれ、
より進めなければならない啓蒙活動が放置されている。
これでは卵にわとり論になってしまう。
逆に引き出すのではなく、殺されていく犬の頭数を目に見える形で、
犬の飼主の名前入りの日報として出すほうが効果的ではとすら考えてしまう。
(現行法制化では、そんな日報が出せるわけもないが。)
どれだけ助け出そうと、入り口論を整理していないと、
遺棄も虐待も殺処分も減りはしない。
情においては認めるが、
論理的に矛盾を感じている原因はこの辺りにあるのだ。
ひろしま事案は、衰弱していた犬を健康な状態にもどすまもなく、
家庭犬としてのしつけも十分に入れたとはいえない状況で、
それぞれ新しい飼主の元に送り届けて終わってしまっている。
わずか一団体が無謀な計画を推し進めたことは、
今後の救出活動、情においては認めてはいるかかる行動にも、
手痛い影響を残していくのではないかと思っている。
不透明な経理も問題だが、安易な譲渡姿勢がもたらす弊害のほうが大きいと思える。
こんご、ひろしまの犬を引き取った家庭から飼育放棄が発生した場合、
場合によっては、保護団体全体に与える打撃は致命的になるのではなかろうか。
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