デビルマン(全5巻) ― 2008-06-19
永井豪 講談社
この文庫版は、発表当時のものに手を加えたものとなっている。
オリジナル版をほぼ踏襲しているのだが、
ところどころ後年に書き加えられた部分が加わり、
発表当時のものと、微妙に印象に違いがある。
手塚治虫以降にも、巨匠といわれる漫画家はたくさん生まれている。
その中でも、永井豪という存在は、
きわめて重要な位置を占めているのじゃないかと思っている。
単純な世界観ではなく、
いくつもの読み方が可能な作品世界を展開した点で、
天才とも言うべき存在になったのではないか。
『ハレンチ学園』でジャンプにて物議をかもし、
スケベで売っているとPTAから批判されたスタート。
確かに女の子の裸を書き性表現を少年誌に展開したのは、
時代から見て早すぎたのかもしれない。
永井豪はその批判から、学園の生徒が自由を守るために戦い、
そして次々と命を落としていく様を描いていき、
単なるスケベ漫画ではなくならせたのだ。
『ハレンチ学園』は、ストーリーそのものが抵抗へと変化していった。
異質なものを粛清していく過程を書ききった。
そういう意味では、筒井康隆の『俗物図鑑』に似た味を持つ。
『ハレンチ学園』以降も、スケベでコミカルな作品を描き続けていたが、
どの作品にも、振り返れば社会病理を風刺する味があった。
『魔王ダンテ』の発表後に連載された『デビルマン』で、
永井豪は神と悪魔という2言論を超えて、
もっと混沌とした世界観を作り上げた。
『デビルマン』は、
人類の繁栄する前に地球に繁栄を誇ったデーモン族が、
永の眠りから醒め、盟主の座を人類からの奪還を図っているとした。
自らを実験台とした飛鳥教授の一人息子・了が、
デーモンに対抗するには人がデビルマンとなって闘うしかないと、
主人公・不動明に働きかけ、明をデビルマンにし始まっていく。
明は、明としての意識を保ちつつも、デーモンの滾りを持ち、
次々とデーモンを打ち払っていく。
しかし、デビルマンとしてデーモンを倒すたびに、
人がデーモン化していくのだ。
過去・現在において、デーモンと人類の間には、
小競り合いが耐えなかったことも明は追体験していく。
人が時としてデーモンより残酷であることも発見する。
しかし、人としての意識を持ち続ける明は、
数少ない愛すべき人を守るために、人類のための防壁たらんとし、
デーモンに精神を奪われなかったデビルマンとなったものを糾合し、
デーモンと対決する準備をしていく。
了も、明の支援をするべく原点に立ち返り、
デーモンとの戦いを有利に進めるため調査しようとしていた。
ところが、了が実はサタンであり、
了として人間界にいたのは、人類の弱点を見極めるためだった。
自らの実体を悟った了は、明のデーモンとの合体を見せ付けることで、
人類の猜疑心を利用し互いに争わせるよう仕向ける。
デビルマン狩りが始まっていく。
突然の暗転に、明は愛すべき人たちから離れなければならなくなる。
それでも人としての自分を意識していたが、
世話になっていた牧村一家が、人の手によって非業の死を遂げ、
人でもない、デーモンでもない喪失感に沈む。
その中から唯一の答え、牧村美樹がいる限り守るべきものがある、
だから闘うと思い定め、美樹の元に急ぎ向かう明が見たのは、
美樹の無残なる姿、サバトと化した殺戮現場であった。
もはや守るものとてない明は、自滅していく人類に介入せず、
滅びるに任せ、
デビルマンを結集し、サタン率いるデーモンとの最終戦争に突き進む。
結末の静寂さは、サタン=了の述懐が心に痛い。
『デビルマン』以後、さらなる大作『バイオレンスジャック』でも、
永井豪の世界観は変容していく。
善と悪の対立でない混沌さが永井作品の輝きを高めている。
『デビルマン』はアニメにもなっていた。
こちらは牧村美樹を守るためにひたすら闘い続ける明の物語だ。
どちらかというと、善悪の対立的要素に近く、
ヒーローものの系譜となっている。
この文庫版は、発表当時のものに手を加えたものとなっている。
オリジナル版をほぼ踏襲しているのだが、
ところどころ後年に書き加えられた部分が加わり、
発表当時のものと、微妙に印象に違いがある。
手塚治虫以降にも、巨匠といわれる漫画家はたくさん生まれている。
その中でも、永井豪という存在は、
きわめて重要な位置を占めているのじゃないかと思っている。
単純な世界観ではなく、
いくつもの読み方が可能な作品世界を展開した点で、
天才とも言うべき存在になったのではないか。
『ハレンチ学園』でジャンプにて物議をかもし、
スケベで売っているとPTAから批判されたスタート。
確かに女の子の裸を書き性表現を少年誌に展開したのは、
時代から見て早すぎたのかもしれない。
永井豪はその批判から、学園の生徒が自由を守るために戦い、
そして次々と命を落としていく様を描いていき、
単なるスケベ漫画ではなくならせたのだ。
『ハレンチ学園』は、ストーリーそのものが抵抗へと変化していった。
異質なものを粛清していく過程を書ききった。
そういう意味では、筒井康隆の『俗物図鑑』に似た味を持つ。
『ハレンチ学園』以降も、スケベでコミカルな作品を描き続けていたが、
どの作品にも、振り返れば社会病理を風刺する味があった。
『魔王ダンテ』の発表後に連載された『デビルマン』で、
永井豪は神と悪魔という2言論を超えて、
もっと混沌とした世界観を作り上げた。
『デビルマン』は、
人類の繁栄する前に地球に繁栄を誇ったデーモン族が、
永の眠りから醒め、盟主の座を人類からの奪還を図っているとした。
自らを実験台とした飛鳥教授の一人息子・了が、
デーモンに対抗するには人がデビルマンとなって闘うしかないと、
主人公・不動明に働きかけ、明をデビルマンにし始まっていく。
明は、明としての意識を保ちつつも、デーモンの滾りを持ち、
次々とデーモンを打ち払っていく。
しかし、デビルマンとしてデーモンを倒すたびに、
人がデーモン化していくのだ。
過去・現在において、デーモンと人類の間には、
小競り合いが耐えなかったことも明は追体験していく。
人が時としてデーモンより残酷であることも発見する。
しかし、人としての意識を持ち続ける明は、
数少ない愛すべき人を守るために、人類のための防壁たらんとし、
デーモンに精神を奪われなかったデビルマンとなったものを糾合し、
デーモンと対決する準備をしていく。
了も、明の支援をするべく原点に立ち返り、
デーモンとの戦いを有利に進めるため調査しようとしていた。
ところが、了が実はサタンであり、
了として人間界にいたのは、人類の弱点を見極めるためだった。
自らの実体を悟った了は、明のデーモンとの合体を見せ付けることで、
人類の猜疑心を利用し互いに争わせるよう仕向ける。
デビルマン狩りが始まっていく。
突然の暗転に、明は愛すべき人たちから離れなければならなくなる。
それでも人としての自分を意識していたが、
世話になっていた牧村一家が、人の手によって非業の死を遂げ、
人でもない、デーモンでもない喪失感に沈む。
その中から唯一の答え、牧村美樹がいる限り守るべきものがある、
だから闘うと思い定め、美樹の元に急ぎ向かう明が見たのは、
美樹の無残なる姿、サバトと化した殺戮現場であった。
もはや守るものとてない明は、自滅していく人類に介入せず、
滅びるに任せ、
デビルマンを結集し、サタン率いるデーモンとの最終戦争に突き進む。
結末の静寂さは、サタン=了の述懐が心に痛い。
『デビルマン』以後、さらなる大作『バイオレンスジャック』でも、
永井豪の世界観は変容していく。
善と悪の対立でない混沌さが永井作品の輝きを高めている。
『デビルマン』はアニメにもなっていた。
こちらは牧村美樹を守るためにひたすら闘い続ける明の物語だ。
どちらかというと、善悪の対立的要素に近く、
ヒーローものの系譜となっている。
コメント
_ まりみ ― 2008-06-20 06:42
_ くまねこ ― 2008-06-22 00:40
亀レスとなります。
永井さんのファンだったのですか。
永井さんは本当にすごい漫画家です。
デビルマンに近いのは石の森正太郎のものくらいですかね。
『幻魔大戦』のテイストが近かったと思います。
バイオレンスジャックは所々しか読んでないのです。
積ん読がてんこ盛りな上、金欠病が重なり、
バイオレンスジャックにまでは当分行き着けそうにありません。
永井さんのファンだったのですか。
永井さんは本当にすごい漫画家です。
デビルマンに近いのは石の森正太郎のものくらいですかね。
『幻魔大戦』のテイストが近かったと思います。
バイオレンスジャックは所々しか読んでないのです。
積ん読がてんこ盛りな上、金欠病が重なり、
バイオレンスジャックにまでは当分行き着けそうにありません。
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バイオレンスジャック全11巻も。これは大人になってから買いました。あまりの長期連載だったし、掲載本が変わったりして全ストーリー読破するのに20年以上もかかりました。私の宝物です。
永井豪は天才です。バイオレンスジャックは永井作品の集大成ですよね。是非そのうち取り上げてくださいな。