きみとぼくの壊れた世界 ― 2008-06-30
西尾維新 講談社 880円
「不気味で素朴な囲われた世界」
http://kumaneko.asablo.jp/blog/2008/03/04/2688629
と同じシリーズとされる作品。こちらが先に出版された。
一作品だけで判断するのもどうかと思い、読んでみたが、
やはり好きになれない作風である。
古臭いといわれようが、過去の遺物といわれようが、
もっとまともな人間が登場人物に欲しい。
出てくる登場人物がすべてどこかいかれた感じというのは、
読んでいて安定感がなく、
いくら現実の閉塞感なりから跳ぼうとしているのだとしても、
やってはいけない禁じ手のような気がする。
大体ミステリに分類されているのだが、
謎解きのし様がないミステリでしかなく、
殺人の動機も薄弱なものでしかないのは馴染めない。
もちろん、こういう世界が好きな人がいるのは理解もするが、
個人的には読んだ後に不条理すら感じないので空しく思う。
読むのが時間の無駄といった印象を抱いてしまう。
年寄りが手を出すものではないだろう。
「不気味で素朴な囲われた世界」 が肉親に対して、
些細な理由で殺意を抱き、
人をコントロールして殺害させるという物語だったのに対して、
「きみとぼくの壊れた世界」は、
禁断の一線を越えようとしている一歳違いの兄妹が軸となる。
兄妹それぞれに言い寄る同級生がいるが、
兄妹はお互いしか見えていず、妹に言い寄る男には兄が制裁を加え、
兄に言い寄る女性がいれば妹の嫉妬を考慮し、関係を絶つ。
そういう兄には友人がいて、
その友人たちが関係する中で殺人事件が起きる。
犯人は誰か。
第2作でも登場する病院坂黒猫が探偵役として、
容疑者を6人に絞込み、犯人探しをする。
兄・妹・剣道部部長・殺害された当人・兄を思う女性・黒猫。
犯人はその6人の中にいる。
意外でも、なんでもない結論に行き着くのだが、
動機は希薄、回答にも齟齬がある。
本格ミステリとするには無理があるように思う。
狂気の存在を肯定したまま、物語を終えてしまうのが不気味。
「不気味で素朴な囲われた世界」
http://kumaneko.asablo.jp/blog/2008/03/04/2688629
と同じシリーズとされる作品。こちらが先に出版された。
一作品だけで判断するのもどうかと思い、読んでみたが、
やはり好きになれない作風である。
古臭いといわれようが、過去の遺物といわれようが、
もっとまともな人間が登場人物に欲しい。
出てくる登場人物がすべてどこかいかれた感じというのは、
読んでいて安定感がなく、
いくら現実の閉塞感なりから跳ぼうとしているのだとしても、
やってはいけない禁じ手のような気がする。
大体ミステリに分類されているのだが、
謎解きのし様がないミステリでしかなく、
殺人の動機も薄弱なものでしかないのは馴染めない。
もちろん、こういう世界が好きな人がいるのは理解もするが、
個人的には読んだ後に不条理すら感じないので空しく思う。
読むのが時間の無駄といった印象を抱いてしまう。
年寄りが手を出すものではないだろう。
「不気味で素朴な囲われた世界」 が肉親に対して、
些細な理由で殺意を抱き、
人をコントロールして殺害させるという物語だったのに対して、
「きみとぼくの壊れた世界」は、
禁断の一線を越えようとしている一歳違いの兄妹が軸となる。
兄妹それぞれに言い寄る同級生がいるが、
兄妹はお互いしか見えていず、妹に言い寄る男には兄が制裁を加え、
兄に言い寄る女性がいれば妹の嫉妬を考慮し、関係を絶つ。
そういう兄には友人がいて、
その友人たちが関係する中で殺人事件が起きる。
犯人は誰か。
第2作でも登場する病院坂黒猫が探偵役として、
容疑者を6人に絞込み、犯人探しをする。
兄・妹・剣道部部長・殺害された当人・兄を思う女性・黒猫。
犯人はその6人の中にいる。
意外でも、なんでもない結論に行き着くのだが、
動機は希薄、回答にも齟齬がある。
本格ミステリとするには無理があるように思う。
狂気の存在を肯定したまま、物語を終えてしまうのが不気味。
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