雷の季節の終わりに2011-09-22

 
恒川光太郎    角川    667円(別)

「夜市」             
http://kumaneko.asablo.jp/blog/2008/08/15/3690853
で、日本人の持つ怖れを見事に復活させた恒川氏。
その作品世界に感銘を受けた。
機会があれば読みたいと思っていた。
特に「夜市」に収録されていた「風の古道」の乾いた世界観には、
たっぷりと浸りたいと願っていたところだ。
この作品は、まさにその願いを叶えるものだった。

僕らが知るこの世界からは隔絶された村「穏」にいる賢也という少年から、
物語は書き起こされる。
「穏」は生者も死者も近寄れない場所といえる。
下界とは交易は行われてはいるが、
それに携わる者も少ない。

賢也は「穏」で暮らしはしているが、異質のものとして村で孤立しがちである。
わずかな友人はいるものの、孤独な思いを抱えていた。
そのことから下界に興味を抱いている。
同時に他人には知られてはならない秘密、
「風わいわい」という物の怪に取り憑かれている。

下界と接する「墓町」を訪れるうち、
賢也は、過去の殺人についての秘密を知ってしまう。
秘密を知ってしまった賢也は、知らせることを拒み、
その結果、友達の兄といさかいを起こす。
そうして風わいわいと共に「穏」から逃避行をする羽目になる。
賢也の前に開かれているのは乾いた漂泊である。

さまざまな因果が錯綜していきながら、
語り部も変化させつつ、「穏」の謎が少しずつ語られながら、物語は展開する。

「風の古道」の世界観と相通じるのだが、
より世界が広がっている。
読まずにいるのはもったいない一冊。

7回目の命日2011-09-23

「ごお」は僕にとって特別な犬だった。
てんかん発作を起こすまでの9年間、
いつでもそばにいて、迷惑の一つも感じさせず、
ただただ楽しい時を与え続けてくれた。
ただただ僕を信頼し続けた。
発作後にはより強く信頼してくれた。
獣医師の熟練の治療では暴れるのに、
僕のつたない作業にはじっと耐えていた。

元気な、活動的な犬だったけれど、
訓練らしい訓練をしていないのに、
呼べばたちどころに帰ってくる。
ほとんどの言葉を理解した。
争い事は好まず、どの犬とも上手に付き合う。
ケンカを売られたら、ひたすら逃げるだけ。
かといって臆病にはならない。

水泳が大好きで、ボールが大好きで、
いつでもくっつき虫で…。

失った悲しみは深い傷となった。
「そらん」やジョンが悲しみをいやしたとはいえ、
かさぶたの下の疼痛はずっと残っている。
何気ないときに、突然「ごお」の最後の日々を思い出し、
悔いという痛みに襲われる。
どうして、あの選択をしてしまったのか。

取り返すことのできない未来。
やり直すことのできない過去。
この悔いは死んでしまうまで、
何度も何度も襲ってくるのだろう。

それでも犬と一緒にいることはやめられない。

命日くらいは少しばかしの涙が出たとしても仕方ない。
今日も少しだけ泣いてしまった。
普段は距離を置く「そらん」が、
珍しく横にずっといてなめた。
こんな日もある。

最後のリバーランドの写真。
せっかくライジャケも着せたのだから、
もう少し、泳がせてやればよかったなあ。

猫鳴り2011-09-26

沼田まほかる    双葉社    524円(別)

沼田さんは冷静な作家だと思う。
「彼女がその名を知らない鳥たち」
http://kumaneko.asablo.jp/blog/2011/08/01/6000956
でははきそうなほどのマゾヒスティックな愛を、
甘さのない冷酷で残忍なまでに、これでもかというほど描いていた。
それなのに、その愛の大きさに、感銘を受けてしまうのだ。
谷崎でさえ裸足で逃げ出すんじゃないか。

人には美しい面と、醜さという面が、たぶん誰にでもある。
たとえば、困っている人を助ける義侠の人であっても、
困っている人からさらに奪う冷血漢になれる。
普通には、読者としては前者を期待してしまう。
沼田まほかるは、その期待をことごとく裏切る。
裏切りながらも、読み手に感銘を残す。

一部のノアール作家を別にすれば、
醜悪さから美を生み出す作家は、ほとんど知らない。
稀有の作家だと思う。

タイトルの「猫鳴り」は、犬飼いとして唯一猫飼に羨望を感じる、
あの不思議な、喉の奥から出てくる「ごろごろ」のことだ。

そう「猫鳴り」は、猫とともに進む物語となっている。
作品は3部構成となっている。

生む前に失った我が子のことを思う中年の女性。
夫は一回り上の50台。
屈折した日常で精神は蝕まれている。
そんな彼女は、家の周りで泣き叫ぶ子猫の鳴き声を聞く。
長時間泣き続ける猫を無視していたが、
ついに古新聞を持って来て家の中に運び、
餌をやり、治療をし、再び新聞紙にくるみ、捨てに行く。
次の日、どういうわけか猫は戻っている。
再び餌をやり、治療をし、夫に捨ててきてと頼む。
また次の日、猫はやはり家のそばにいた。
それでも彼女は無感動に、儀式のようにして世話をし、
また捨てに行く。

この執拗な描写は、読み手に不快感を与えずにはいられない。
猫飼いなり、動物愛護者なら、
本を投げつけ、あるいは破り捨て、
猫は生きているのよ。生きる権利があるのよ。
とかなんとか叫びだすに違いない。

でもだ。彼女の行動はどうしようもないほどに正しい。
見かねた部分では世話をしてやり、
生き延びる保証はなくとも殺しはせず、
彼女の壊れた心での、正しい選択をしたに過ぎない。
誰が非難できようか。

そもそも猫が捨てられていた理由は、
別な家で生まれたもので、
殺したくない少女が、無慈悲に彼女の家においていったのだ。

が、少女と彼女が会った時、
荒廃した心と心がぶつかったことで、
猫は彼女の家で飼われることになった。
見事すぎる第一部である。

第2部は、心の壊れが終局を迎えようとしている少年が描かれる。
第一部に登場する主婦は舞台から退場する。
猫と少女は少年の背景にポツンとある。
ぽつんといる猫と少女が、壊れきる直前の少年と触れることで劇が起きる。
この闇から脱出劇も大いに読ませる。

第3部では、主婦に先立たれた夫と猫が前面に登場する。
老いていくことと向き合う二人を描ききる。

3部のそれぞれは冷酷なほどの描写で進められていく。
それでいて救われるものである。
見事な一冊だ。

老いを感じるとき2011-09-27

「ごお」が8歳になったころから、
たとえば水泳で、流れに抗う泳ぎができなくなり、
たとえばボール遊びで、ブレーキが利かなくて転ぶ。
悲しいことに老いの徴だったわけだ。

最近「そらん」にも徴が見られる。

たとえばAウォークで、以前なら助走なしでも軽く上ったのに、
最近ではあと一歩が届かなくなっている。
たとえば脱走の時、高々120センチの柵を飛び越えるのを失敗する。

去年では考えられなかったことだ。

「はいら」とのボール投げでも、
少し出遅れたら走るのを中止してしまう。
以前なら10メーターほどの出遅れなら、
追い越せたのに、それが難しくなったようなのだ。

まだまだある。
訓練用のひも付きボールはよく跳ねる。
うえに向けて投げれば一度目のバウンドは
ほぼ僕の身長より高く跳ねる。
そのボールをキャッチしようと跳んだとき、
全然高さが足りないことがある。
これも去年では考えられないことだ。

「そらん」がほんとに跳んだときは、
後肢は僕の胸にまで届いていた。
だから頭は僕の身長を軽く超えて2メーターに届いていたと思う。
現に「そらん」は2メーターの塀なら、
足がかかれば乗り越えられた。
ところが今では160センチの塀を超えようとして失敗し
後ろ向きで落ちそうになることもしばしば。
そういえばボディバランスにも陰りがある。
障害物を飛び越えるときに、
「そらん」は足をつけることが多い。
その時つけた場所が予想に反して大きく揺れても、
以前ならその場で姿勢を修正していた。
近頃では空中での姿勢制御ができきれず、
着地の際に大きくバランスを崩すようにもなった。

そのどれもが、老いの徴なのだ。

「そらん」の老いに、穏やかではいられない。

荒野(全3巻)2011-09-27

桜庭一樹   文春文庫   ①②438円 ③419円(別)

12歳 僕の小さな黒猫ちゃん
14歳 勝猫、負け猫
16歳 恋しらぬ猫のふり
と、それぞれ副題がつく。

桜庭一樹の命名は不思議だ。
本作品では荒野が主要人物に与えられる。
一方でどうしようもない歪んだ愛を描いた「私の男」では花。
美しい名を持つ作品ではただれきった物語になり、
虚無的な名を与えられた本作ではまっすぐな物語になる。
「私の男」がネガだとしたら、ポジにあたる作品のように感じる。

「荒野」は一人の少女の成長を追い続けていくのだけれど、
”荒野”を取り巻く身近にいる男たちは猥雑ではあるが優しく、
女性は愛情に満ちているが、壊れている。
その点でも「私の男」の淳悟が
埋められない虚無の中でさまよい、常識の枠外にいるのとは対照的だ。

生い立ちの中で、男性へは接触拒否という心的外傷を持つ荒野が、
後に家族となってしまう悠也と出会い、大人の恋に目覚めていく。
放蕩者の父が見せる男女の関係の世界に驚きながら、
ゆっくりと進んでいく荒野の成長がまぶしい。

作中で小道具として用いられる作品は、
五木寛之による「青年は荒野を目指す」だろう。
そのもとになったのはナット・編保父の「ジャズ・カントリー」
こちらの作品も、読んでいただきたい一冊だ。
どちらも時代が変わって問題が見えにくくなったとはいえ、
本質的なところでは保存されたままだ。
そうした障壁に立ち向かい成長する物語としてすぐれている。


「私の男」
http://kumaneko.asablo.jp/blog/2011/07/28/5987687
「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」
http://kumaneko.asablo.jp/blog/2008/04/21/3221559

忍びの国2011-09-28

和田竜    新潮文庫   552円(別)

「のぼうの城」
http://kumaneko.asablo.jp/blog/2011/01/24/5647969
で、デビューと同時に直木賞候補作家となった和田竜の第2作。
2008年に発刊されている。
「忍びの国」は織田信長の伊賀攻略までをベースにした娯楽小説だ。
コミック誌のゲッサンにて坂ノ睦の画により連載されていた。
コミックと小説で同じ印象をもたらすのは、
著者・和田竜の経歴が影響しているのかもしれない。
どちらかを読めば十分。
それぞれの手法による読後感の差は少ない。

戦国期の伊賀の国は小領主が乱立しており、
国としてのまとまりはなく、互いが争い荒廃していた。
でも、国外からの侵攻があれば、
小領主連合が結束して事に当たる体制ができている。

伊賀は、山間の地であり、独特の技が発達していた。
それらの技は諜報や暗殺などに大きな威力を持つため、
伊賀の技は諸国に高く売れるものとなっていた。

一方で急速に拡大する織田の勢力は、
伊勢、近江などを併呑し膨張し続けている。
しかし、地形的な特徴から侵攻は困難と考え伊賀攻略は慎重に臨んでいた。

その慎重さを怯と見たのか、
百地三太夫を筆頭に、伊賀衆は織田に対して謀略を開始する。
策に乗せられた伊勢は伊賀への侵攻を開始する。
信長という偉大な父を持つ、子の信雄の焦りなどもよく書けている。
北畠旧臣の葛藤などもよく書き込んであり、
天正伊賀の乱というものが、
もしかしたらこの作品のような背景で起きたのかと納得させられてしまう。

「忍びの国」の一番の読みどころは無門という人物造形にある。
安芸の国で口説いたお国に頭が当たらない情けなさを持つが、
伊賀随一の腕を持つ達者で、三太夫からも一目置かれている。
わずかな報酬のため、超絶の技をふるう無門だが、
お国と会って以来暗殺はほとんどしていない。
その無門を中心にして物語は進んでいく。

娯楽小説としては大変良くできた作品であるが、
個人的には、あまりすすめたくない。
面白さという点では手放しにすすめられるものだが、
どこかで拒否がある。

絶望中学2011-09-30

山本俊輔   リンダブックス    571円(別)

著者は1975年生まれの映画監督だそうだ。
「木更津グラフィティ」で脚本を担当している。
残念ながら「木更津グラフィティ」が、
どんな映像作品だったのか知らないので、
この人の傾向などは、とんと見当がつかない。

タイトルと帯にあった言葉、
「僕たちはどこにも行けない」に惹かれて読み始めたが、
全体としては、現代を切り取る作品になっていると思うが、
子供以外の登場人物、中でも教員への取り扱い方が、
僕の友人知人たちにいる教員像は反映していないと感じた。
親の姿もデフォルメしすぎじゃあないかと思う。
著者自身は、追い込まれている青少年の姿を切り取ったというのだろうが、
管理教育や体罰に関しての捉え方にも偏りが見られる。

そもそも型に押し付けようとする学校など、
今の世には存在できない幻影だ。
子供を挟んで保護者と学校は寄り添いながら、
共同して対処しようとはしていない。
学校と家庭は完全にすれ違い始めている。
家庭は、子供の問題に対しては、責任回避しようとし、
学校に対しての多大な期待を寄せる。
学校の指導方針が示されていれば、
いったんは受けいれながらも、
自分たちの問題になった途端に異を唱える。
いわく先生方の指導に問題があったのではないか。
学校の中の不備を見つけようとする。
その気になれば、不備などいくらでも見つかるものなのだ。
責められてはかなわないから、教員は萎縮して、
親に伺いをたて続ける。どちらも責任を果たせないのである。
その結果が、子供たちを萎縮させる。

型にはまることは少年たち自らの選択であるようだ。
携帯を駆使して他人とつながり続けようとする若い人たちにとって、
友人がいないということは恥ずかしいことで、
あらゆるところで衝突を避けようとし、他人に迎合し続ける。
友の意味すら変わってしまっている。

そういう現実の学校を反映はしているようだ。
本作は。

全部で10章に分けられている。
それに序章と終章を付け加えたものとなっている。

私立中学を舞台として設定する。
大学の付属校の新設中学で、
徹底した管理教育により急速に有名中学となってきている。
問題ある生徒に対しては体罰を辞さない教員がいる。
その一方で、責任回避をする教員も数多い。
なかでも3-Aの副担任は言葉より力という教員だ。
3-Aの担任はことなかれを決め込む若手女性教員で、
生徒の問題はすべて副担任に丸投げをする。

その副担任が交通事故で重傷を負う。
深夜のことで単なる自己だと思われたものが、
何者かによる殴打の跡が判明し、事件へと発展する。
副担任に対する怨恨が考えられる。
生徒たちは、それぞれに恐慌をきたす。
その中でも、3-Aのボスとして君臨する小川は、
自分のいじめ行為への不安もあり、
積極的な犯人捜しをするようになる。
標的には、群れない生徒が選ばれた。
いじめに耐えかねたその生徒は衝動的に
小川を切り付けてしまう。

メインはそういう流れである。

それ以外に
保健室登校を続ける男子生徒。
過食と拒食を繰り返す不登校の女子生徒。
まっすぐに育つがあまり、孤立していく女子生徒。
いじめる者。いじめられる者。
そういった歪みのある生徒たちが続々登場する。
まさかそこまで学校に仲は閉塞感にあふれているのかと思うかもしれないが、
別に特殊な環境でなくとも起きうる事態であろう。

本作品では、1990年代から起きた、
プロ教師の会の管理主義教育の行き詰まりも明らかにしている。
かといって、それ以前の個性を尊重する教育など歯牙にもかけない。
評価する価値もない過去の遺物と切り捨てている。
じゃ、教育というものはどこに向かえばよいのだろうか。

ところで第8章の管理教育の生徒会則であるが、
このようなものを指して管理教育というのであれば、
大きな勘違いを生ませる。
会則をどのように運用するかの教員サイドの方針が問題であり、
書かれている内容については一部を除いて常識的なものといえる。
もし、このような校則があることを指して管理教育というのであれば、
著者は大きな勘違いをしているのではないかと思う。

この本に書かれるほどには醜悪ではないにせよ、
子供たちの孤立感は、大人たちのうかがい知れない闇をはらむ。
生徒ではなく親の世代が読むとよいのだろう。
この世が絶望なのだと知れよう。

ただし、教員はもっと人間としては前向きにいる場合が多いと思う。
少なくとも友人知人を見ている限りではね。