『ゴールデン・レトリーバーとの日々』2007-06-09

アーサー・ヴァンダービルト著 WAVE出版 \1500 

 エイミーと名付けられた、そのゴールデン・レトリーバーは
著者たち一家にとっては四本足の守護者だった。
家族が独立して別々に住むようになっても、
エイミーがいる風景が、エイミーと過ごす時間が、
一家に人間だけでは感じ取ることの無い、
何気ない毎日が変化に富み、濃密な時間を与えてくれた。

家族たちの永い不在を謗ることもなく、
いつでもそこにいつづけたかのように歓迎し、暖かく迎えるエイミー。
 夏の休暇のひと時に、エイミーと家族たちはボート遊びをし、
海岸を散歩する。そこにエイミーがいるだけで、
毎日が冒険と喜びに溢れていく。

リゾート地で引退生活をする両親と<
中年になった子供たちとエイミーとの「黄金の日々」。
そのエイミーが10歳になったとき、一家に悲しみが訪れる。
エイミーに元気がないのだ。死という哀しみから、
誰もエイミーを助け出せないのだ。
悪性のリンパ腫に罹った犬の命の灯火は消えようとしている。
そして、愛されてきた家族たちは、
愛していたエイミーを偲びこの優れた物語を著した。
ゴールデン・レトリーバーとの「ゴールデン・デイズ」。
この詩情溢れる物語を読んだなら、
きっと涙が止まらなくなる。きっと犬と一緒に暮らしたくなる。

犬と人間との愛情はのどかで美しい。
  (なぜなら)犬は、楽園から追放されたことがないのだから
ミラン・クンデラ(小説家)

郡司ななえ2007-06-09

『ベルナのしっぽ 私の娘は盲導犬』 郡司ななえ 著
              イーストプレス 刊(1996)
 『ガーランドの瞳 愛の盲導犬物語』 郡司ななえ 著
              イーストプレス 刊(1999) 
 郡司さんは27才で失明した女性です。
結婚して日々を重ねるうち、我が子を抱きたいとの思いが募ります。
なにができるのか指折り数えます。結局目が足りない事に気づきます。
盲導犬はどうだろう?だけど彼女は犬が怖いのでした。
募る思いに彼女はアイメイト協会に電話をします。
それが盲導犬ベルナとの出合いだったのです。
 協会での訓練からベルナとパートナーになるその日までの苦闘。
無事訓練を終えたあとには周囲の誤解と無理解との闘い。
そうした日常をエッセイにしています。
 郡司さんは、通常10才前後でリタイヤする盲導犬を
最後までリタイヤさせずに家族として扱っています。
ベルナもついには目が見えなくなります。
それでも大好きな人のため、盲導犬でありつづけようとするのです。
ベルナと郡司さんとその家族との心の交流は
言葉にできない感動があります。
 しっぽに伝わるベルナのこころ。盲導犬たちが家族に与える無私の愛。「目の見えるおかぁさんのようになりたい」。
13年間その想いを支えたベルナのものがたり。
 ベルナの死と夫の死。郡司さんにとって大きな事件が過ぎ去って、
彼女は生きる勇気をふりしぼります。
2頭目の盲導犬ガーランドと暮し始めたのです。
ベルナとの性格の違いに戸惑いながらも、
いつしか家族になっていくガーランドと郡司さんとその子ども。
生活は自然と落ち着いていく。ゆっくりとした幸福な日々。
 だけど、ガーランドが急性白血病のため余命が無いと判ります。
 三年三ヶ月の命でガーランドが召される。その日までの物語。
つまらないけんかばかりしている人間たちよ。
           この犬たちを見よ。

『シンガー・ソングライター』2007-06-09

田川律 著  アップフロントブックス 発売 ワニブックス  ¥1,200

 1965年から1975年にかけての日本フォークロックシーンをたどる旅。
高石友也・岡林信康・吉田拓郎・荒井(松任谷)由美・井上陽水たちが
日本音楽シーンにもたらしたものとはなんだったのかを、
自らもミュージシャンとして活動した経験を持つ著者の田川さん
(現在は舞台監督や執筆翻訳などに活躍)が回想しています。
バックステージから見たシンガー・ソングライターの軌跡は、
同時代を生きた人にとっては懐かしい、
彼らの全盛期を知らない若い人にとっては
興味深い成功ストーリーと映るかもしれません。
日本ではそれまで、カレッジ・ポップスやロカビリーを除いて、
作詞家も作曲家もレコード会社に属していた。
浜口倉之助や筒見京平といったレコード会社を飛び越えた音楽家は、
GS(グループサウンド)の誕生で花開いた。
そして、GSが急速に浸透し、それを上回る勢いで衰退し、
フォークソングがムーブメントとして若者文化から大衆性を確立したのが
ちょうど本書が扱う時期になっている。
 自分で作って自分で唄う。
まさにこうした歌い手の登場は音楽産業に大きな衝撃を与えることとなった。
多くの若者がスターを夢見て、自分の言葉をメロディーに載せた。
そのことは、アイドルのあり方まで変えてしまったといわれている。
 1975年。最後の大物シンガー・ソングライター中島みゆきのデビューで
本書は終わる。この後も長淵剛が出現するなどシンガー・ソングライターは延々と生まれつづけている。だが、最も激動していた時代は間違いなくこの10年間だったろう。
 政治的にも、文化的にも激動の時代に生まれたシンガー・ソングライター。
彼らの多くはいまだに唄いつづけている。
大塚まさじ、早川義男、古川豪、高田渡、三上貫、加川良、友部正人
そしてもっと。
プロテスト・ソングといわれた時期もあった。
啓蒙的な歌が流行った時期もあった。
 …街角でギターをかき鳴らし歌う若者たち、
ある種現代と似た雰囲気に合ったのかもしれない。
そう考えると今も大きな変化のときなのかもしれない。
 ともあれ、フォークの巨人たちの足跡を辿ってみてください。

『カラス、どこが悪い!?』2007-06-09

 樋口広芳、森下英美子 著  小学館文庫 ¥476 

 カラス。童謡『七つの子』に聞かれるように、
日本人には馴染みの深い鳥です。
なのに、これほど忌み嫌われている動物は、
どぶねずみとゴキブリくらいしか、僕には思い出せません。
嫌われているのには、その雑食性のため腐肉をも食べることや
黒が死を招く色として嫌われていることにもある。
が、何よりもごみを散らかし人を襲う。
そのことが嫌われている本当の理由なのです。
 カラスは人の居住地域に隣接して住んでいます。
人間の都合によって開発が進むうち、
人間の行動様式に適応して、
人間の上前をはねることを覚えていったのです。
 本書は、動物行動学の立場からカラスの行動を読み取り、
人間の住環境に脅威を与えるのが何故なのか?
どうした奈良にカラスの被害を受けずに住むのかを考えています。
そうした調査のなかで、
ヒトとカラスが共存する道は無いのかを探っています。
 カラスは非常に賢く人にも懐けばモノマネもするという、
存外に愛くるしい一面を持ち合わせています。また、
鳥では唯一といって良い『遊ぶ』ことを知るそうです。
そうしたカラスについては本当に知らなかったのだと思います。
世上言われる様にカラスは悪い動物なのでしょうか。
皆さんも考えてみてください。
たぶん自分たちの都合しか考えないで、ごみを作り出し自然を奪っている。
そんな人間が一番悪いのかもしれませんね。

 本書には、
少し前に世を騒がした線路に置石したカラスの行動記録なども豊富。
巻末にカラスと人との事件簿が載っている。
1949‐2000/7までの記事一覧だ。
 カラスの生態を通して都市環境を考えてみませんか?

『自衛隊交戦!』2007-06-09

黒井文太郎+軍事ジャーナリスト会議 編著
宝島文庫 2002年刊 ¥600 

自衛隊が軍隊として働き出している。
 世界でも有数の装備と錬度を誇る軍隊として知られる自衛隊。
1990年の湾岸戦争以降、急速にその性格は変化してきている。
湾岸戦争以後、大きな事件だけでも
阪神大震災・オーム事件・全米同時多発テロなどがあった。
それらのたび自衛隊とその運用について、法の不備が問われ、
新しい法律がなんとなく成立し、
いつのまにか自衛隊が海外に出動する道が開いている。

この諾否についてはさまざまな考え方もあり、
ここで善悪を論じる事はしないが、
少なくとも起こった事件の性質と日本の外交方針を深く論じることなく、
なし崩し的に、
自衛隊の国際的位置付けを変えてしまったことは確かなようである。

 自衛隊が海外に出動できるという考え方は、
「集団的自衛権」という概念によって正当化されている。
「集団的自衛権」とは自国が武力攻撃を受けていなくとも
同盟国などが攻撃を受けた場合、
協力して防衛する権利があるということで、
自国のみを防衛する「個別的自衛権」とは異なる。
しかし「集団的自衛権」について日本は
その行使を一度も認めたことがないのである。
もっと言えば憲法9条の戦争放棄の条項に関しても
解釈で行ってきた経緯がある。
普通の人が普通に読めば自衛隊が存在することがおかしいのだが、
なにやら禅問答のようなわかりにくい解釈で正当化しているのである。
 本書はこうした歴史的経緯や現在の政治状況を簡単に眺められる。
護憲派・改憲派、右翼・左翼、防衛庁の制服組・背広組、
各政党入り乱れての混乱状況がつぶさにわかる。

言うまでもなく日本という政体は、
主権者であるわたしたちが、自ら望む方向を決めるものである。
今何が起きていてどこに向かおうとしているのかを知り、
自らの意思を明確にするときは迫っています。
それぞれの立場からの訴えに耳を傾け
何が望ましいのかを考えてみてください。
本書で自衛隊を勉強しよう。

『この国のゆくえ教科書・日の丸・靖国』2007-06-09


梅田正巳著 岩波ジュニア新書 2001刊 ¥780 

日本の敗戦から50年を過ぎる1995年前後から、
新しい“国家主義”のような考え方が台頭してきている。
それらはさまざまな周辺の考え方を飲み込み
学校という場所にも訪れてきている。
みんなにも見える変化は、国歌斉唱や国旗掲揚の強化、
『新しい歴史教科書』の記述の問題などである。

 ひとつひとつを見れば意見が分かれて当然な事柄なのだけれど、
国家の介入の仕方に温度差が見られるような気がするのです。
それらがなぜ起きるのか、またこの国がどこに向かおうとしているのか、
しっかりと見極める必要があるように思います。

 いまや世界有数の経済大国であり、
軍事大国でもある日本が進むべき道は、
日本に暮らすみんなの意思で決定されるのです。
もし日本が誤った選択をしつづけるなら、
新たな世界紛争を引き起こすことだって考えられるのです。

 同時多発テロへの報復を行うアメリカに、
自衛隊という武力を派遣するという援助を行う日本は、
もう20年前の日本ではなくなっている。
さまざまなファクターが絡み合うものの、
こうした流れは福祉や教育への
予算低下を推進していく要因になっているようにも感じる。
市民主義の凋落が始まっているのかもしれません。
君たちが住みよい日本であり、世界にも貢献する日本になるためには、
どのような視点でこの国を見つめればよいのでしょうか?

 本書は長年高校生向けの雑誌の編集に取り組んできた著者が、
特にこの10年の日本の動きを振り返りながら、
教科書問題、国家・国旗問題、日米安保を軸にして、
日本のゆくえを考えるきっかけを作ります。
この本で提示される問題は一つの考え方として知っておくことが、
これからの日本を創るうえで大切な視点になると思います。
巷間で語られる会話は
『国家主義』か『市民主義』かという二元論的な整理になりがちです。
ぜひ本書を読んで日本の進むべき理想を考えてみて欲しいと思います。

『負け犬の遠吠え』2007-06-09

酒井順子著   講談社  2003出版  \1,400  

 なんとも刺激的なタイトルなのだ。
負け犬とは何?遠吠えって何に対して?
はてなマークをいっぱい浮かべたまま読んでみた。
そうか、そういうものなのかと合点してしまった。

 著者の想定する「負け犬」とは、
30歳以上、独身、子どものいない女性のことである。
どんなに美人で仕事ができても30歳過ぎて独身なら
「負け犬」なのだと断言しているのだ。
だけど「負け犬」などという惨めなネーミングの割には、
からっとしていて嫌味もなく、
むしろそういう自分を楽しんでいるように思わるところがある。
言い忘れたが酒井さん自身、自らの定義する「負け犬」なのである。

 「負け犬」の生態を余すところなくまとめた本書は、
「負け犬」の皆さんばかりか「勝ち犬」の皆さんも巻き込んで大論争!
著者の分析について、いろんなところで論争されているようですが、
賛否相半ばし大混戦の模様です。
しかし共通しているのは、否定派であっても、
いや否定派にこそ世の男性に対しての叱責が見えてくる。

 世の男性諸氏は、
「俺には関係ないや」と高みの見物を決め込んでいるようですが、
著者はしっかりと男性にも切っ先を向けています。
真に恐ろしいのは「男の負け犬」なのかもしれません。
「負け犬」論争は女性のものに非ず、
男性こそ考えなければならない視点なのだと思います。
世の女性が結婚に望むものと、男性の望むものとの乖離が存在する限り、
「負け犬」論争は空転していくだけだと思います。
 この本はエッセイなので、気楽に読むこともできます。
ひとつ気楽に読んで、結婚できるかどうか占ってみるのも良いのかな。
少々毒のある話題の一冊です。
「負け犬にならないための10箇条・なってしまってからの10箇条」等
全女性必読の書とされていますが、
男性の結婚戦略にも応用可能。

「他人と深く関わらずに生きるには」2007-06-09


池田清彦 著   新潮文庫  362円

今、大きな政府を小さな政府に変えようとする動きが加速している。
小さな政府というのは、あらゆる規制を緩和させ、
自由な競争を推進することで、
効率のよい経済活動を保証するという試みである。
これによって、能力があり、運もよいものが、より豊かになり、
反面、能力に秀でるものが無く、運も悪いものは
豊かさから遠くに押しやられていく社会構造となる。
公平な出発点が保障されないこの変革の流れは、
実は既得権益を継承させる方向にあるのではないかと指摘するのが、
本書における池田氏のスタンスである。

さて、本書では刺激的な文句が並ぶ。
「ボランティアはしないほうがかっこいい」とか
「心をこめないで働く」などの見出しには、まじめな人なら激怒しそうである。
だがちょっと待ってほしい。
ボランティアという言葉を誰が言い出したか思い出してみるがよい。
最近の若者の公徳心のなさを憂うると騒ぎ、
心の教育が必要などと、私的諮問機関に答申させ、
教育のプログラムに盛り込ませ、
評価の基準にしてしまうのは暴挙とも思える。
確かに人のために何かをするという美徳は、
一見日本から消え去っているように感じる事件が多い。
だけど、相変わらず若者も含め、
ちょっとしたきっかけがあれば人助けを誰もがしている。

そもそも口当たりのよいボランティア精神を唱え、
行政や立法が果たさなければならない責務を果たさない政府に、
納税者はシビアな目を向けなければならないのだ。
目の前に困っている人がいて助けることは人として当然の行為だ。
だが、困っている人すらいないのに
ボランティアを要求するのはどこかおかしい。
ボランティアを奨励している向こう側に見え隠れするのは、
本当は欺瞞ではないのか。
世の常識というものを疑ってかかることを本書は教えている。
日本を見つめ直すきっかけになる本だと感じる。

『とら猫ミセス・マーフィー』シリーズ2007-06-09

『町で一番賢い猫』 早川ミステリ文庫  ¥720  1990刊
『雪の中を走る猫』 早川ミステリ文庫  ¥760  1992刊
     リタ・メイ・ブラウン&スニーキー・パイ・ブラウン共著
  2007年限座゜位は第5作も邦訳発売済み

 スニーキー・パイはリタの愛猫だそうです。
飼い主と猫とでミステリーを共作しているんです。息のあったチームです。

 物語は人口3000人ばかりの
アメリカの田舎町クローゼットを舞台に展開されます。
住民たちはお互いをよく知っている。
そんな町で凄惨な連続殺人が起きた!
しかも犯人は住民たちの中に居る。町中が騒然とする中、 
女性郵便局長ハリーは核心に近づく。
そして、ハリーには犯人の魔の手が忍び寄る。

 愛するハリーを守るため、その愛猫=とら猫のミセスマーフィーと、
同じく飼い犬にしてマーフィーの親友=楽天家のコーギー犬ティー・タッカーが活躍するミステリーです。
犬や猫の仲間たちから情報を仕入れながら、
事件解決に立ち向かう2匹。いよいよの窮地に2匹は
いかにしてハリーを助けるのか?

 登場人物?(犬猫など)のキャラクターがおかしくて楽しめます。
動物たちが語る人間批判も一聴の価値があります。
人間模様も田舎町ならではの味が出ていて、
厳格なプロテスタントや、フェロモンたっぷりの女性、
家柄にこだわる資産家など
シリーズを通じておなじみのキャラクターが活躍していきます。

 アメリカでは結構人気があるようでシリーズは6作出ているそうです。
近く『スニーキー・パイの料理教室』も出版されると解説に出ています。
本邦においては、
赤川さんの『三毛猫ホームズ』みたいなもんと言えるのかな?と、思います。
翻訳もの特有の癖がありますが、
きっと楽しめるミステリー=推理小説です。
とくに、犬や猫が好きな人なら肩の凝らない軽い読み物なんでお勧めです!
 興味を持って読もうとするなら『町で一番賢い猫』から読んでね。
人間関係などは連作長編の形を取っていますので、
順番に読まないと魅力が半減してしまいます。

『ヘビトンボの季節に自殺した5人姉妹』2007-06-09

ジェフリー・ユージェニディス 著   早川書房 1994刊 ¥1800

映画『ヴァージン・スーサイズ』原作

5年程前に読んだとき、妙に鼻の奥がツ~ンとした、
甘酸っぱくて、謎めいていて、残酷で、悲しくて、暗いと感じた作品だ。
恋に破れたときに感ずるツーンとした感覚。わかります?

17才を筆頭に美しい5人姉妹がいた。アメリカ中西部の小さな町で、
彼女たちは奇跡のように存在し、男の子たちの憧れの的であった。
両親たちは彼女たちを慈しみ、
守ろうとするあまりに彼女たちを外界から隔絶させていた。

この物語の語り手である『ぼくら』は、ガードを潜り抜け姉妹たちと接触し、
ついにその家を解放的なものにしたかに見えた。
一人が14歳の娘とデートに成功したのだった。
そのまま姉妹は両親から解き放たれ、
おおらかな日常に馴染むかと思えた。
だが、末娘がウェディングドレスを着たまま飛び降り自殺してしまう。
塀の鉄柵に刺し抜かれて。
そうして、残る姉妹たちも幽閉されたかのようになり、
一年後謎めいたままに全員が死んでいく。

姉妹は、一人の中にある多面性を色濃く象徴する存在として描かれています。
神秘。敬虔。知性。自己愛。そして…エロス。
一人一人が、一人の死をきっかけに狂ったように特化していく。
その先には、両親を含めた家庭の崩壊だけがあった。
『ぼくら』と姉妹たちの電話をとうしての交感。
互いに気に入ったレコードを掛け合うシーンは、
本当に甘酸っぱい記憶が呼び返されるかも。
恐怖小説ではない。だけれど、
ゴシックロマンに通じる暗さを持ち合わせた小説だ。

死の影が全編を覆いながらも美しい小説だったと記憶しています。
『ぼくら』という人称で語られていく物語は、回想から始まる。
誰にもわからなかった姉妹たちが自殺した原因を捜し求めるようにして。
両親や関係者の証言を求めながら、『ぼくら』の視点は様々に彷徨う。
 失ったものを惜しみながら…